雨宮天12th Single『フリイジア / 情熱のテ・アモ / Emerald』に今見せられているものについて


21年7月21日にリリースされた、雨宮天さんの12枚目のシングル「フリイジア / 情熱のテ・アモ / Emerald」を聴いて、今見えてるコトについて。

 

 『私はライブでは曲ごとの世界観を可視化したいんですよ。』

『それぞれの曲を可視化するようなステージにしたい。』

雨宮天「PARADOX」インタビュー|ポップに突き抜けた新境地の10thシングル - 音楽ナタリー 特集・インタビュー:取材・文 / 須藤輝)

 

と自身のライブパフォーマンスについて語っている雨宮さん。

 

「PENS」読者なら知らないかもしれませんが、その様にライブで届けられたモノを、受け取ったモノを、こうしてブログで濾過する作業が僕は好きなのです。

(図書館通信 第九三五号より)

 

そして、それなら、今のうちに最初の衝撃を可視化しておけばもっと広く公演中に見えるかなと、お弁当箱に詰めてみるのです。


楽曲の感想(MV未視聴)


雨宮さんのビブラートが効きまくってて、めちゃ好きなんだよなあ。

繊細な曲かと思いきや、銅鑼(?)のようにドーンッと広がっていくイントロに、雄大な気持ちになりますよね。

視界に雄大な大陸が広がっていく、ような。

 

歌唱の方でも、A,Bメロは切なさを孕んだ細やかな歌唱なんだけれど、サビに差しかかると、のびのびとしていて嫋やかな歌唱で。

 

聴いていると、なんだか船で川を下っているのかのような時の流れを感じます。

 

 

歌詞を読みながら通しで聴いてみた段階では、『別れ』の曲なのかなあと。

 

今段階で思っていることだから、書き出してみたら違ったイメージになるのかもしれないけれど。

 

掘り下げていく要素としては、『雨』かな。

そういう抒情詩だと思うので。

 

 

その前に、掘り下げて自分なりに解釈しようとする人は皆やってるであろう、「フリイジア」という花からの考察。

 

【フリージア】

・フリージアの開花時期は、3~4月

・5月中旬には枯れ出す(葉だけになるらしい)

(9月下旬から11月中旬に球根を植えつける)

 

・色によって花言葉があるらしい

  • フリージア全体の花言葉:「期待」
  • フリージア花言葉・白色「あどけなさ」
  • フリージア花言葉・紫「憧れ」
  • フリージア花言葉・赤「純潔」
  • フリージア花言葉・黄色「無邪気」

 

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「フリイジア」というタイトルが如何なる意味であったり情景、ひいてはこの曲の主人公の想いを内包しているのか、について。

 

まずはちょっと自分の好きな味付けを探してみようかなと。

 

雨宮さんが声優グランプリ8月号の中で「歌い方としては、語り部でもあり当事者でもあるような、両方の要素が入っています。」と『語り部』の存在をお話しされていましたね。

 

「語られている物語」はどのような物語なのか、考えていきやしょう。

 

まずは、『時期』。

 

「いつの間にか枯れた窓辺のフリイジア」

 

という歌詞があることから、5月中旬から5月末くらいかな。

 

「まだ見ぬ晴天の空に向かい もう一度と、祈りを込めた」

 

という歌詞があるから、晴天が望めぬほどのどんよりとした厚い雲、ってことで梅雨とも見れるんだけれど、この後に続く僕が食べたい食べ方とは合わないんだよね。

 

 

なんで5月中旬から5月末くらいが、解釈的に僕は美味しいか。

これは先ほど掘り下げていく要素として挙げた『雨』で考えているところで。

 

日本って『雨』を表す言葉、メタファーがめちゃくちゃ多いんですよ。

この曲の主人公が『涙雨』(後で解説)として降り止まない雨を詠んだように、古来から先人たちはいろんな言葉で『雨』を形容し、雨を眺めているのです。

 

雨詩を催す』という言葉があり、読んで字の如く「雨が詩を詠もうとする気持ちを呼び起こす」、という意味なのですが、これには頷くばかりですね。

 

話が逸れましたが、この主人公がいるであろう「5月中旬から5月末」から少しだけ遡り、春先に降る雨を表す言葉として次の様な言葉があります。

 

 

【万糸雨】

細かく温もりを帯びていて、かすかで柔らかい雨。草木の若い芽が萌え立つ野山に降りかかる無数の細かい、糸のような雨。

僕がめちゃくちゃ好きな表現。雨宮天さんの楽曲でいうと、『雨の糸』がピタリ。

 

 

【青葉雨】

春萌え出た新芽は緑の濃さを増し、やがて青葉の時を迎えます。その青葉に降りかかる雨のこと。

未熟である状態はしばし『青』で表されます。思うに『青』は「弱さ」というモノを背負わされた色であるのかもしれません。

「熟 す」から遠く離れた状態だから遠さの『青』 なのか、そもそも遠い『青』に憧れる状態が弱々しいからなのか。

 

ちなみに、木々の青葉からしたたり落ちる水滴を時雨に見たてたのが『青時雨』。

この頃吹く風の事を、『青葉風』と言うそうな。

 

 

 

『万糸雨』は春に芽吹いた「若い芽(新芽)」に降り注ぐかのような、優しく降り注ぐ雨。

 

3月から4月が開花時期だというフリイジアは、この雨に包まれて、芽吹く。

そして、『青葉雨』をどんどん体内に汲み取りながら、フリイジアは育っていく。

 

 

この『万糸雨』や『青葉雨』こそ、5月中旬から5月末に『涙雨』へと変わるもの(=「追いかけた面影」)。

 

この曲の主人公は「追いかけている対象」に特別性(「自分への優しさ」とか「強さ」とか人それぞれだと思う)を見出し、そこに特別な感情が芽吹き、さらに触れ合う中で気持ちが花開いていく。

 

歌詞カードの文字色や、衣装に刺繍されている花の赤さから、募らせた思いは「愛」なのかな。

 

 

そしてその想いは憧れから『純潔』たる赤として花開き。

次第に結びつきを失い、花は落ち、葉のみとなる。

 

 

そこに降りしきる『涙雨』。

 

【涙雨】

深い悲しみの涙が降るように感じられる雨。

 

 

その涙雨(あの頃の雨ではない)に、葉を伸ばす姿。

 

なんかこう、『(もうそこにはいない)想い人に、手を伸ばす』光景のようで、それこそが僕がこの曲に見た抒情詩です。

 

 

メロディーの方は、A,Bメロとサビでリズムに差異が感じられる部分が面白い構成ですよね。

サビ部分はワルツっぽいアレンジ、と言えばいいのかな。

 

 

 

なんだろうなあ、こう。

 

A,Bメロは何か大切なものへの想いがじんわりと湧き出しているように繊細なんだけれど、サビ部分からの転調で一気に感情が溢れ出す。

 

雨後の筍みたいに、ぐぐんっと。

 

んー。

 

A,Bメロはタンラ山脈の氷河からの冬解け水(長江の源流)

サビは長江

 

みたいな。

長考してみた割に例えがようわからんね。

 

 

そこに乗せられる雨宮さんの歌唱。

 

 

少し自分の好みの話をすると、『雨』を題材にした歌が結構琴線なんですよね。

 

もともと「雨」に纏わる表現の多様性が好きなんですよね、「雨訪」とか「遣らずの雨」とか。

 

 

人は雨のイメージを利用しながら、自分の生き方や何を選んでしまったか、歩んできた道を過去に収めようとしているんじゃないかなとも思えていて。

 

人が自らの雨のイメージを語る時、そこにその人の歩んできた道や生き方が映し出される様に感じます。

 

雨は誰かにとって恋心であり、慕情や安らぎであり、悲痛な涙だったりする。

 
雨を題材にした歌や詩は、日照りで困っているところをさっとぬらして通り過ぎて行く様な瞬間的な優しさと、その中に、確かに雨跡を残していく強さを紡がれた言葉から感じられて、好きな歌や詩は多かったりします。
 
んー。
 
雨の中でしか言えないことってあると思うんです。
雨音に紛れこませる様にしか紡げない感情ってあると思うのですよね。
A,Bメロの、「あの面影」を辿っていく雨宮さんの歌唱は密やかに雨音に紛れ込んでいるような印象。
一方で転調したサビ部分は、感情がもう溢れちゃっていると先述したけれど、もう少しメタファーを補うとすれば、「この涙雨の中でしか言えない言葉と出会っている」ような場面を想起させる歌唱かな。
声優グランプリさんのインタビューで、
「もともと歌謡曲が好きで、そういう歌い方も歌謡曲を聴くなかで学んできたからこそ、できたんじゃないかなと思いました。それに合わせて、この曲は最初に音源を聴いたときよりもキーを大幅に下げてもらっているんです。普通は下げても、半音とかなんですけど、この曲は高い声で歌うよりも、自然と出るどっしりとした低い声で歌いたいなと思ったので、1・5音くらい下げてもらって。」
とお話しされていましたね。
少し雨宮さんの傘にいれてもらうけれど、そのキーを1・5音ほど下げた部分が、僕に「この涙雨の中でしか言えない言葉と出会っている」ような歌唱を想起させているのかなあと。
「自然と出る、どっしりとした低い声」というのが、ストンと腑に落ちる部分でもあって。
この『フリイジア』という曲は、「大事な人の存在の大きさを知る歌」だとも思っているんですよね。
私にとって、あの人はこんなに大きい存在だったんだと、じんわり気付いていく歌。
(気付かされる、でも良きかも)
気付き。
「ああ、そうか」と気付いていくとき、自然と一息ついて我に返っていると思うんですけれど、そういうな自然な状態って、高音、出ないじゃない。
サビ頭はその存在に気付いたように低くどっしりとしていて、次第に気持ちが昂っていき、サビ後半部分では上擦りの極限を迎える。
そこに差し込む、「そっと陰る部屋の片隅で」という歌唱が、しっとり夜の帳を降ろしていくような情緒を感じますよね。
そんでさ。
2番に入ると、1番と同じ様な情景を繰り返すでしょう。
なんか、こう、この曲の主人公は、毎日毎日、連夜泣いているんだなと感じられるのです。
2番までは泣き続けているんだけれど、あのDメロの転調、そしてラスサビでの歌唱を聴いた限りでは、最後は雨宿りを終え、扉からこの部屋を出ていくのかなと。
なんかこう、上手く言えんけど、ラスサビの歌唱はなんだか意志がある感じというか、芯があるような印象を受けてて。
先ほど「私にとって、あの人はこんなに大きい存在だったんだと、じんわり気付いていく歌」と書いたんだけれど、そう気付かせる雨のことを『身を知る雨』と表現するんですよ。
我が身の上を思い知らせるように降る雨のことを言うんですけれど、「幸せ」「不幸」どちらでも用いることができます。
んー。
この曲の主人公は『涙雨(=『身を知る雨』)』を通して、自らの幸せに気付く形で終わってほしいなあと、これは願望なんですが、思っていて。
実際に雨宮さんの歌唱からも、こちらのエッセンスを感じるので、そちらの解釈かなあ。
んー。
八木重吉
『雨』
雨のおとがきこえる
雨がふっていたのだ
あのおとのようにそっと
世のためにはたらいていよう
雨があがるように
しずかに死んでゆこう

 

「しずかに死んでゆこう」とあるけれどネガティブな詩ではなく、「自分のやらねばならない事をやっていこうと決意する」詩なんだけれど。
多分『フリイジア』は普段聴きしていると、そういう気持ちに鳴る曲かなあと今は思ってます。
まあ、結末部分は、特にライブでどう届けられるか(歌唱、ダンサーさんとのパフォーマンス)で毎回印象が変わってきそうで、とても「ライブ」を楽しみにしている曲でもあります。

フリイジア Music Videoを観るぞい

みゅーずぃっくれいん

花瓶が綺麗ね

綺麗

赤に青が映えるね

花、青い、「憧れ」の方でいいのかな

微笑み多めなんだ

└回顧録、語り部

  └円窓とレコードの丸

   └回想(冒頭寝てる、夢?)

この姿を作り上げました

 

-------

 

 

ほぁ。

 

微笑みが多かったのが、とてもとても意外だった。

 

んー。

 

微笑んでたんだよなあ....。

 

語り部視点なのかな。

MVに出てくるこの人はもう『あの頃』を通り抜けている人で、過去を回想している、みたいな。

 

 

静かに紡いだ過去の日々は

真っ直ぐにしがみついた時間は

強さと弱さを織り合わせて

この姿を作りました

 

という歌詞が『回想』を感じさせる部分で。

あの微笑みは、自分を作り上げている過去に対しての眼差しだったのかなあ。

 

 

んー。

 

『禅』的な曲なのかもしれない。

 

気になっているのは、丸いオブジェクトが多く効果的に使われていることなんですよね。

冒頭のレコードにはじまり、円窓、マイクスタンド。

 

 

禅には『円相(えんそう)』という書画があります。

 

悟りや仏的真理、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものであり、また円から想起される「始まりも終わりもなくスムーズに流れ続ける動き」は、とらわれない心、執着から解放された心を表わしている、とも言われています。

 

そして『円窓(えんそう)』と書いて「己の心をうつす窓」という意味で用いられたりも。

 

 

ほいで、このMVに登場するような円い障子窓。

 

この窓こそ、禅宗系の寺院でよく見られる窓であり、上述の禅的な悟りを表現した窓なんですよね。

 

その禅的な『円』の概念で座禅を組みながらMVをもう一度観てみる。

 

んー。

 

例えば、レコードの円に落とされる針は「始まりも終わりもなく流れ続ける時間」を表現しているんじゃないかな。

 

そいで、マイクは執着から解放された歌声を。

 

円窓は、この人自身の心を。

 

 

この人が円窓の部屋にいるということは、既に『あの頃』の苛みからは解放されていて、その苛みは少なくとも、良き思い出として、大切な思い出としてこの人の中にある、のかな。

 

 

こう解釈した方が、古代中国という作品の世界観にも沿うのかな。


情熱のテ・アモ


好きそ〜〜〜〜〜〜〜〜(笑)

 

雨宮さんが作詞作曲をされたこの曲。

なんだろうなあ、こう、歌謡曲への愛がすごく伝わってくる曲に仕上がっていますよね。

 

すごく、大人な歌詞だなあ。

 

 

子供の頃、ポルノグラフィティとかよく聴いていた頃、歌謡曲ってすごく「大人」なイメージがあったんだけれど、そうそう、こういう感覚だよなあって懐かしくなりました。

 

山口百恵さんの『イミテイション・ゴールド』を初めて聴いた時、なんだか恥ずかしさにいたたまれなくなったのを憶えてる。

 

「愛の囁き」とか「抱き寄せる」とか、歌謡曲でよく愛情表現の婉曲として用いられる言葉がふんだんに盛り込まれていて、うん、歌謡曲好きなんだなあって(笑)

 

「キッスの雨」とか「シガーの匂い」って、もう今日じゃなかなか耳にしない表現だけれど、ピタッと曲にハマっていますよね。

 

その部分の歌唱も、色っぺぇこと、色っぺぇこと…。

 

しかし、『火花』といい今回の『情熱のテ・アモ』といい、あと、『The Clearest SKY』の朗読パートといい、色っぽい表現の描写力がすごいわね。

 

 

歌謡曲って、歌詞の中で「情景の描写(語り部的な部分)」と「登場人物の心情」を緻密に組み合わせてつくられているような特徴があるなあって思っていて。

 

フレーズを聴いたら、その情景がポンと脳裏に浮かぶんですよね。

今回の『情熱のテ・アモ』も、そういう部分がしっかり踏襲されているように感じられて、凄いなあと。

 

 

んー。

 

 

スーッ・・・

 

でも、なんか、難しい曲だなあって...w

 

曲のイメージは

 

「あの日(≒前の男=あなた)」を忘れ去りたい女の人が、他の男との愛で「渇望」を埋めようとしているけれど、でも私はあなたを忘れられない

 

 

みたいな、感じ。

なんか、ちょっと構成が『イミテイション・ゴールド』っぽいのかな。

 

 

ただ、解釈が2通りあって、どっちかなあと決めかねているんだよなあ。

 

ラスサビ前に

 

抱き寄せて ねえもう一度

忘れ去りたいのに

身体中が叫ぶ「あなたが欲しい」

 

という歌詞があって、ここで「抱き寄せてほしい」と言っている対象は、あなた。

そこでの感情的な爆発を受けてのラスサビ。

 

抱き寄せて さあ奪って

リズムに身を預け

愛の囁きより 確かな熱を

 

との歌詞になっているんですけれど、この「抱き寄せて」の部分。

 

他のサビでは「強く抱き寄せて」になのに、この場面になると「抱き寄せて」になっているんですよね。

 

ひぃ、どうしたもんか。

 

 

んー。

 

 

 

二通り、解釈の道あるように思えているのですよね。

 

 

まず一つ目は、「あなたを忘れて私はこの人に溺れる」みたいな覚悟を決めたパターン。

 

スーッ・・・

いや、俺はいったい何を妄想してるんだ......?

 

 

他のサビは「強く抱き寄せて」になのに、この場面になると「抱き寄せて」になっている部分、ここでの心情変化を『諦め』として捉えるパターン。

 

抱き寄せて さあ奪って

リズムに身を預け

愛の囁きより 確かな熱を

 

というラスサビ、「抱き寄せてほしい」と言っている対象は引き続き、「他の男」。

 

 

本当は「あなたが欲しい」けれど、ここは異国の地(「異国」というワード自体がメタファーで、あなたから遠く離れた状態を暗喩しているのかも)であり、あなたとはもう繋がれない。

 

とついに、諦めてしまう、というか、受け入れてしまう END。

 

それまで強く抱きしめてもらう必要があったのは、彼女自身の内面に『拒絶』があったから。

 

星の数ほどのキッスの雨が味気ないのは、そこに『拒絶』があったから。

 

でも、もうその壁が取り払われたので、強さは必要ない、みたいな。

 

 

んー。

でも、実際に歌唱を聴いていると、こっちはなんだか違う気がするんだよなあ。

 

ラスサビ、なんか、強いもの。

 

 

 

二つ目は「やっぱりこの渇望を埋められるのはあなただけよ」なパターン。

 

大きな違いとしては、

 

抱き寄せて さあ奪って

リズムに身を預け

愛の囁きより 確かな熱を

 

というラスサビ、「抱き寄せてほしい」と言っている対象は『あなた』

 

本能が求めるのは『あなた』であり、『あなた』だから拒絶はないし、ただ(今は他の男の胸にいる私を)奪い返して欲しい、という、念。

 

 

個人的な好みはこっちかなあ。

 

 

以上、妄想おじさんでした。

 

 

特に好きな歌詞は

 

封も明けぬまま かさばる同じ色の手紙

強がってみても 宛先の癖字は滲んで

 

です。

 

情景が、ポポンと浮かぶし、この心情描写、すごく好きだなあ...。

 


Emerald


今更だけれど、ジャケット、良すぎ...。

ドキドキしちゃうね。

 

冒頭のフレーズが終わってイントロが合流してきたとき、「歌謡曲じゃん!」って思わず漏らしちゃいました。

 

 

以前、よく聴く歌謡曲として「筒美京平」さんの楽曲を挙げられていて、「好きになりがち」とお話しされていましたね。(雨宮 天 わたしだけのモノではない。7年向き合った『七つの大罪』)

 

なんだろうな、こう、メロディーに哀愁やババン!って感じがあって、本当に筒美京平さんが作曲された楽曲?ってくらい、「筒美京平っぽさ」を感じる一曲になっているなあと。

 

 

港、船乗りの彼、歌謡曲エッセンスですね...。

 

さっきもパラパラふりかけたのだけれど、なんか歌謡曲って「異国」や「船乗りの彼を待つ私」テイスト感ある楽曲、多い印象なんですけれど、どうでしょう。

 

誰かを待ち焦がれ慕情を募らせていく曲では、「あなたの心が私から遠く離れた状態」を暗喩するメタファーとして用いられやすいのかな。

 

 

んー。

 

そういうエッセンスの曲が多いのは、何か世相的なところがあるのかな。

戦後復興期の『東京ブギウギ』、みたいな。

 

なんかそこら辺、掘り下げてみても面白そうね。

論文漁ってみようかな。

 

 

 

カリシアの花、花言葉は「感謝」なのか。

 

「愛」とかそういった類ではないんですね。

 

なんだかその薄っぺらさが、『届かない恋心』というものを、際立たせて感じさせますね。

 

Aメロのリズム感がすごく好き。

 

情景が淡々と紡がれていく部分なんだけれど、並べられた言葉を明朗に抑揚つけて歌唱されていて、すごく好き。

 

この部分、カラオケとかで歌ったら楽しいだろうなあ。

 

 

聞き慣れない銘柄のワインの年代は

誰と重ねているのでしょう

 

って歌詞が一番好きだなあ。描写力がすんごい。

 

 

ラストフレーズの歌唱、「碧い風が吹く」の息の抜き方がなんだか引っ掛かっていて、哀愁があるなあって。

 

報われない、方かなあ。

 

でも、報われないことの弱さは感じられなくて。

 

歌謡曲でよく歌われる「誰かを待つ女性」を描いた曲って、なんか、みんな人として強いのだよなあ。

 

大人びてるというか(男性の奔放さを描いていることが多いからより際立つ印象)、でも歌詞は哀愁があって、歌声に込められた強がりを客観的に受け取っているこちらとしては、より切なくなるんだよね。

 

この曲の雨宮さんの歌唱からもその「大人っぽさ」や「切なさ」が感じられて。

 

素敵な曲だなあ。

もう不意に口遊んじゃったりしていたりします。

 

リサイタルで、いろんな曲をカバーする中にふっとこの曲を潜ませてくれたら、嬉しいな。

 


おわりに

ひゃー。

 

雨宮さんの『好き』を存分に浴びせてくれるシングルでしたね。

 

随所に歌謡曲から取り入れられたんだろうなあというエッセンスが歌詞や歌唱に散りばめられていて、聴いていてとても面白い曲ばかりだなあって。

 

そういう『好き』をたくさん、こちらを信じて届けてくれることが、嬉しいのです。

 

 

歌謡曲歌唱を聴いていると、あれだね。

 

雨宮さんの歌謡曲カバーアルバムが待ち遠しくなるね!!

 

私はロボットではありません。

よろしくお願いします。

 

 

リサイタルも、すごく楽しみだなあ。

 

なんか、こう、リサイタルって『友人と行くカラオケ』みたいな楽しみ方なんですよね。

 

友人の好きな曲を知れた発見だったり、自分の好きな曲を友人が好きなことが分かった嬉しさ、だったり。

 

 

どんな曲を歌うんだろうな...!(´×`)

 

とてもとても、楽しみなのです。


雨宮天オフィシャルブログ「天模様

雨宮天 | SonyMusic

 

 

「LAWSON presents 第三回 雨宮天 音楽で彩るリサイタル」開催決定!

 

【イベント概要】

LAWSON presents 第三回 雨宮天 音楽で彩るリサイタル

日程:2021年9月5日(日):昼夜2回公演

出演:雨宮天

会場:LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)