In dream begin the responsibilities
大学受験勉強の際にノートの裏表紙によくネームペンで綴った言葉である。
今もそうだけれど、あまり「夢」という単語をうまく自分の中の定義で囲い込めない。
夢って、因数分解していくと何が残るのか。
夢を持つことで何が生まれるのか。
転機は高校生時代のある本との出会い。
これは僕の中でまだ曖昧だけれど確かに明確な「夢」という単語が持つ意味について考えさせてくれた物語。
僕を構成している、大切な言葉の1つをご紹介したい。あ、なんかリトルウィッチっぽい
『1909 年のことだと思う。僕はどうやら映画館にいるらしい。長い腕が闇を横切りながらくるくる回り光を送り続け、僕の目はスクリーンに釘付けになっている。 それは昔のバイオグラフ社のサイレント映画のようで、役者たちは馬鹿みたいに古めかしい服を着ていて、場面場面が唐突に別の場面に飛んでつながってしまったりする。役者たちも跳びはねたりゆっくり歩き回ったりしている。画面は、点 や線ですっかり汚れ、まるで撮影のときに雨が降っていたみたいだ。光の質も悪い。』
(『In dream begin the responsibilities』)
スクリーンに映し出されたのは身なりを整えた若い男。彼は未来の自分のこと、そして自分が本当に彼女と結婚したいのかを考えながらその彼女の元へと長い散歩を楽しんでいる。
男は僕のパパ、女は僕のママだ。映画館の観客にはパパとママ、そして二人の息子である僕を知る者はいない。
「僕も自分のことを忘れている。映画とはそういうものなのだ。ドラッグと同じだ、と言う人もいる。」。
私たち読み手は映画を観ている「観客」とは異なり、「僕」と同じ視線で映画を観るようにこの物語を読むことになる。
そして、これは「僕」が見ている夢であるために、映画という装置を越えてサイレント映画であるにも関わらず、解らないはずのパパの気持ちや、聞こえないはずの会話、音楽が、随所に挿入されていく。そしてそれらは映像とどこか噛み合わず、奇妙な違和感を内包したまま読み手の元へ届けられていく。
映画は進みパパとママのデートは続いていく。とても楽しそうな二人。
しかし、観客がこの物語を映画として時に席で揺れながら楽しむ中で、僕はふと悲しみにかえったり、泣き出したり、ついにはどうしようもなくなって立ち上がりトイレへ駆け込んでしまう。そんな彼に対して『観客』は時に苛立ちを見せ、「あらあら、ただの映画じゃないの、お若い人、ただの映画よ。」と悟す。
僕は夢の中で映画を観ている。僕は夢という虚構の中で映画という虚構を見ている。
その虚構の中の虚構という構造と、小説の中で映画を観ているという読み手の側の構造がシンクロしていて、映画と彼の夢をすり合わせ物語を読みすすめて行くにつれ、奇妙な感覚に襲われる。その為、僕が感じる不満の正体が解らないままに他の観客と同じ様に彼の行動をたしなめつつ、しかしその恐怖や不安や憤りがどこか自分のもののように感じられてくる。
しかし、それは映画の中でデートを楽しむ彼らには実感として湧いておらず、観客達も楽しそうに見入っている。僕や読み手を置き去りにして。
そしてパパは自分の未来のことを雄弁に語り而してたどたどしくママにプロポーズをする。そしてママはそれを受け入れすすり泣く。不意にパパは何もかもが面倒くさくなる。
刹那、僕は席から立ち上がって叫ぶのだ。
「結婚しちゃいけない! まだ間に合う、考え直すんだ、二人とも。いいことなんて何も待ってないぞ。後悔とにくしみと醜聞と、それからおそろしい性格の子供が二人、それだけさ!」、と。
僕は隣席の観客に再び、しかし強く注意されて席に坐りなおす。
パパとママは写真屋で記念写真を撮る。写真屋の手筈が悪くて父は苛々しはじめ、ふたりはぎくしゃくし始める。ママが占い小屋に入ろうという。パパが反対し口論になる。ママに根負けするように中に入ると、怪しげな占い師が出てくる。父の我慢が限度に達し、母の腕を取って外へ出ようとする。だが母は動こうとしない。ついに父は母を置き去りにしてそこを立ち去る。母は占い師に引き止められてそこに佇んだままだ。僕は恐怖に襲われて席を立ち、画面に向って叫ぶ。
「何をやってるんだ、お前たちは!自分のやっていることがわかってるのか?ママはどうして追わないんだ、後を追わないんならどうするつもりなんだ?パパには自分のやっていることが分からないのか?」、と。
僕は映画館の男に引きずり出される。男は僕に向って言う。
「お前こそ何をやっているんだ!お前みたいな若いのが、人生これからってやつがなんでこんな風に喚き散らすんだ!自分のやっていることを少しは考えてみろ。他人の迷惑にならない所でだって、こんなことをやってちゃいけないんだ。自分のやるべきことをやらないとあとで後悔するぞ。このままやっていこうたって駄目だ。正しくないんだ。直に分かる。お前がやることは、自分の責任は自分でもつんだ!」
僕は冷たい光の中へ放り出される。そして目がさめる。
身を切るような冬の朝、僕の二十一歳の誕生日だ。朝はもう始まっている。
自分が生まれてくるより以前の両親のデートを、この映画と同じ情景をただ夢の中で想像するだけであったら、僕の気持ちはずっとフラットを保っていただろう。
映画とは数直線の様に過去から未来へと続いていく時間の流れの中で、過去の時間を切り取り、編集し、より見栄えの良くなるよう脚色される。そうして出来上がった映画は想像でも単なる過去でもなく、実際の過去の場面の記録でありながら、同時に想像され創造されたモノでもある。『プライベートライアン』がノルマンディー上陸作戦という過去の場面の記録でありながれら、同時に想像/創造されたものである様に。
僕は感じ取ったのだ。両親の過去、それは自分にとっての過去でもあり「僕」にとって自分を規定する特別な意味を持つことに。二人は結婚しても恵まれず、そして同時にこれから生まれくる自分も恵まれない事が分かっているのだ。
しかし、僕は両親の決別の情景を観ることで、「自分が生まれないかもしれない」という『得体の知れない恐怖』に駆られただそれを『この映画の』観客や『この映画の』上映を執り行うスタッフに伝えようと叫び喚く。しかし、それは誰にも伝わらない。
なぜなら、僕が見ていたのは映画ではなく夢であって、それは彼の想像であり創造であってそこに自分の意思が混在しないにせよ責任は僕に発生する。そこに「他者性」は認められない。その夢の責任は僕自身にしかないのだ。
想像した過去とそれが自分に与える影響、自分が創造した過去への影響、その二つが重なりあった時、僕は自分が背負わされているモノと、背負わなければいけないモノ(=責任)を知る。
僕は夢から覚め、二十一歳の朝を迎え、夢から生まれた責任を背負って未来へと歩み始める。
In dream begin the responsibilities
夢の中で責任がはじまる
元はアイルランド文芸復興運動のパイオニアで20世紀最大の英詩人とも評されるイエーツ(W.B.Yeats)が1914年に刊行した詩集『Responsibilities』(原文はなかなか日本では直接読むことができないがトロント大学のデジタルアーカイブで見ることができる)で用いた言葉とされている。
(リンクが何故か設定できないのでURLを:https://archive.org/stream/responsibilities00yeatuoft#page/n12/mode/1up)
今更蛇足だけれど、シュワルツが文を担当した絵本『ちいちゃな女の子のうた“わたしは生きてるさくらんぼ”』(文:デルモア・シュワルツ/絵バーバラ・クーニー/訳:白石かずこ 1981年 ぽるぷ出版)があるのだけれど、これがとっても「女の子」を「女の子」として表現しきっていて大好きである。
村上春樹の『海辺のカフカ(上巻)』にもイエーツの方でこの言葉が登場する。実家にあるから仕方なく国会図書館で読む。国会図書館、良いぞ。
『すべては想像力の問題なのだ。 僕らの責任は想像力の中から始まる。 イェーツが書いている。 In dreams begin the responsibilities--まさにそのとおり。 逆に言えば想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように』
アイヒマンは第二次大戦期、ナチスのホロコーストにおいて主導的な役割を果たし、逃亡するも裁判の結果絞首刑になった人物。
裁判に際しアイヒマンはユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたものの、自身の行為については「命令に従っただけ」だと主張した。この公判時にアイヒマンは「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」という言葉を残している。
『「自分が裁判にかけられているところを想像する。人々が僕を非難し、責任を追及している。みんなが僕の顔をにらみ、指をつきつける。記憶にないことには責任を持てないんだ、と僕は主張する。そこでほんとうになにが起こったのか、それさえ僕は知らないんだ。でも彼らは言う、『誰がその夢の本来の持ち主であれ、その夢を君は共有したのだ。だからその夢の中でおこなわれたことに対して君は責任を負わなくてはならない。結局のところその夢は、君の魂の暗い通路を通って忍びこんできたものなのだから』」
「彼女はおかしそうに笑う。『でも、よくわからないな。そんなの黙って勝手に想像していればいいじゃない。いちいち私の許可をもらわなくたって、君がなにを想像しているかなんて、私にはどうせわかりっこないんだから』
いや、そうじゃない。僕がなにを想像するかは、この世界にあっておそらくとても大事なことなんだ。」
想像力のあるなしに関わらず、夢は誰もが見ることのできるもので。
夢は何しも雄弁に語られるだけのものでも、誰か他者の為に在り常に他者を魅了し続けるだけのものではない。
夜眠るときに見る夢であれ、自分から遠く離れた青い夢想であれ、それは自分自身が自分自身だけで想像し創造するものなのだ。
重要なのはそこに他者の他者性を介在させないこと。
そういう意味で、責任は現実にではなく、想像力に属するのではなかろうか。
夢の中で何者かになりたいとそう自分の姿を想像した時、創造への責任が始まるのだ。
僕はその責任を果たそうと努める人たちを見るのが大好きだ。
そしてもし他者の創造の中に夢を見た時、そこにもまた責任が生ずるのではないだろうか。
そう、毎日を過ごしたいな、と思う。
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