2022年8月28日の日記『勝手口』


人の本質が現れるのは追い詰められた時ではなくて、心から生きようとしたときだ。

 

最近の雨宮さんのお姿を見ていると、なんだか、そう思うんだよな。


10年近く前、僕が19か20あたりのその頃。

まだ僕自身いろいろなことが見えてなかった頃。


デビューしたての雨宮さんを見ていて、「追い込まれていく人の姿」を感じていた自分がいたのを憶えている。

 

当時の、怯えながらも理想に向かって鋭く尖っていこうとする姿。

それが、高みを目指していかなければならない立場ゆえの「弱っている姿を見せられない姿」のよう見てしまっていた時期が、僕にはある。


 

今だって、あの頃だって、すごく僕らの存在を喜んでくれて意気になってくれる人だったからこそ。

未熟だった僕には、「応援しています」と背中を押すことが「この人をどこかそういう戦地へと追い立てていくのではないか」と怖かったことを憶えている。


 

あの頃は、特に2014年からは、他人の人生が変わっていく様をヒシヒシと感じるくらい、それほど雨宮さんは忙しない様子で。

そんな日々が、当時の僕には「人の人生が狂わされていく様なフィクション」みたいに見えていたように憶えている。


「この人の人生が狂わされていく」というより、「コンテンツ」という型、ひとりの人間を舞台に立たせ、世界が、ファンが、僕らが望む『雨宮天』という姿にその人を押し付けようとしているような、そんな感覚。


それに自分が加担しているようで、途轍もないワクワクの反面、当時は勝手に、なんだか怖かったことを憶えている。

(まあ加担していくことが僕らの営みなんだけれど、当時はそんな勇気も、果たすべき責任も分からなかった)



どんな言葉を掛けていいのか、分からなかった。


 

「応援しています」、「頑張ってください」。


 

『なりたい理想へ向かって変わっていく』、そんな姿へ向けるこの一言が、やさしい真綿のような言葉が、ぎゅうぎゅうとがんじがらめに相手を締め付けていくのではないかと怖がっていたことを憶えている。


『雨宮天』というより、あなたが在りたいあなたのままでいられる、そんな世界が、時間がいつか訪れてほしいと、切に、勝手に願っていた。


んー。


雨宮さんが見せていた「強さ」や「心の美しさ」を、僕は人が自分を追い込んで決断する時に見せる「強さ」や「心の美しさ」みたいに受け取ってしまっていたんだよな。



そもそも、人が追い詰められて決断する時に見せる「強さ」や「心の美しさ」は怖いんだよな。

追い詰められても「自分」でいられる人なんて本当に少ないって、たくさんの過去と歴史が教えてくれているから。


 

当時そんなことを考えていた節は当時のメモにあるけれど、でもまあ、結局のところ、これらは当時の僕の一方的な押し付けであり、勝手な勘違いなんだよなって、今は思う。


その勘違いに気がつくのは、15年の1st写真集『ソライロ発売記念イベント第二回』かな。

 

 

勝手な想いゆえの勘違いだと気付けた、その感情変化のグラデーションを描くのはきっと何千文字も必要だから。

それは、再来年にあるであろう機会にするとして。

 

うん。

ソライロイベの最後のMCが、僕にとって矯正の機会だったんだよね。


雨宮さんから受けていた印象が、『追い詰められながらも真っ直ぐ理想へ手を伸ばしている人』から『心のままに生きようとしている人』っていうものに変わった瞬間。


人の本質が現れるのは追い詰められた時ではなくて、心から生きようとしたときだ。

 

心から生きるということは、「自己表現」とか「自己演出」とか、自らが持つものについて真正面から向き合いながら自らの手で様々なことを試み行っていく歩みだ。


それは、「自分とどう生きていくか?」という人間味そのものの問いと繋がる。


その人には「自分の心に対しての誠実さ」だけが命綱みたいにあって。

それを手放さなかった人の「強さ」や「美しさ」だけが舞台には在る。


僕があなたを好きなのは、そういう部分がはっきり見えてしまうからだと思います。 



自分が選んだ道でも「自分がどうなるべきか、どう進むべきか」はその一歩を踏むまではわからないし、結局その繰り返しだ。


「そんなつもりはなかった」と思うこともあるし、でも今更そう言うわけにもいかないので、「ならばこうする」と自分の心に誠実に答え続けていくしかない。


自分を貫くことは自分の予想を裏切るような未来に立ち向かい続けることで、好きなように歩き続けるわけにはいかないものだ。

 

「美しく堂々とした答え」を受け取っていると、「その答えに向かってあの人はまっすぐ歩んできたんだ」と感じてしまう。


でも本当はその「まっすぐ」を手に入れること自体が何よりも大変であるはずで。


歩んできたその人だけにしか見えないその足跡があるからこそ、舞台の人はあれだけ強く美しく正々堂々と輝くのだと、僕はこれまでの雨宮さんとの時の中で学んだ。


そして。


生きて、肉体を持てば、他者の視線に晒されて、他者の言葉や決めつけや評価に、自分が搦めとられるような感覚にどうしてもなる時がある。


けれど、花束を舞台の人から受け取る、ということができたとき、人は自分が貼られてきたラベルのことも忘れていける。

自分もまた、花を差し出す側として生きていこうと思えるし、できる、と今の僕は僕を信じている。


 

ああ、そっか。


昔は、雨宮さんをフィクション的に見るのがすごくイヤだったけれど、 今の僕は一面的に見れば、雨宮さんをすごくフィクション的に見ているのかもしれないな。

 

自分ではない、他人として。


そうか、あの頃はすごく「自分事」的に見ていて、だからこその感情だったんだと思うけれど、今はこう、たぶん、これが心地良い。


その心地良さには相変わらず名前をつける勇気はないけれど、まあ野良猫に名前をつけるみたいにあなたが好きな名前で呼んでくれていたら嬉しいな。


僕のブログに並んだ過去の感想文や本棚に並んだ寄稿先の本を眺めていると、こういう風に、勝手にあなたを想い、勝手にいろいろ考えてきたなと思う。

 

本当に、ずいぶんと勝手にやってきたなあ。


勝手に好きになって、勝手に応援して、勝手に想って、勝手に勘違いして、勝手に救われて。


でも、ずっと幸せだったんだよなあ。

人生いくつもピンチがあったけれど、あなたや、あなたのお陰で出会えた人たちが本当に支えてくれたんだよな。

 

     

雨宮さんを想うとき、よく「勝手に」という言葉が口をつく。


たぶん、雨宮さんと出会って、こういう風に文字を書くことを始めてから、使う頻度が激増した言葉。

     

生きてりゃそう使う言葉ではないと思うし、「勝手にしろ」とか「自分勝手だな」とか、どちらかと言うと負の場面で使われる日常語だと思う。

 

でも、こんだけ自然と「勝手に」という言葉が口に出るというのは、僕が居たい場所っていうのがその「勝手に」という言葉に顕れているのだろうと思う。



2022年8月28日。

 

お誕生日おめでとうございます。

これからも心の向くままに、

心から生きていてください。

 

勝手にいつまでも好きだから。

僕の勝手は僕が責任を取るから。


頑張ってくださいね。

ずっと、いつも応援しています。