ラジオイベント終わり、エンディングのトークを聴きながら、色々な感情が織り重ね倒れてきて。
「ああ、一週間以内に意欲湧いてこなかったら、もうメール書くのやめよ」と。
そう、思っていたんですけど。
でも、寝て起きたら。
寝て起きたら、心だけは空虚に置き去りのまま、頭と手は楽しいメールを作り出そうと動いていたんですよね。
そうやってここ一週間、来る日も来る日もいつも通りメールを書いてみたけど。
それでも、依然心は全然ついてこなくて。
ラジオのイベントが終わってから、ずっと何かがショックで心が凪いでいたんですよね。
魂がぽとりと落ちたみたいに、心が21g以上に重さを失っていて。
何がこんなに悲しいのか、自分でずっとわからなくて、ずっと考えていたんですけど。
んー。
そうだなあ。
イベントでメールが読まれなかったこと単体は、実はショックじゃなくて。
『そのときに「美味しそう」と思われた料理が違う料理だった』、メールの採用不採用って、ただそれだけのことなんですよね。
あとは、『「ディナー」というお題に、しっかり「ディナー」な料理を出せているか。「ランチ」じゃないか』、みたいなところだと思うんですけれど。
だから、突き詰めれば、そういうメールを出せなかった(出せたけどプライド的に出さなかった)自分が悪いわけなんです。
まあ、そういう料理を六年半も毎日作り続けてきて、こういう機会に食べてもらえなかった、という悔しさも幾らか心に居座り続けているんだけれど。
でも、食べたい料理は、「料理を食べるお客さん」が決めるだけなので。
あー、でも、こういう言い方をすると「ラジオメールはコンペ。読まれたもん勝ち。」みたいなことを言い出す人に餌を与えるので良くないのか…。
それは絶対に違くて。
んー。
これから話すことは自分の言葉に潜っていきながら感情を名づける試みなので、ラジオや番組批判ではないっす。
不満でもないかなあ。
不満っぽく聞こえるかもしれないところも、本音だけど、理性では「そうはいかんよねぇ」と分かってるので、声高に「こうしてくれ」って気持ちじゃなくて。
その理性で分かってるはずなことに対して揺らいでる自分の感情がわからなくて、ちょっと言葉に出してみながら潜ってみようかと思うよ。
あまり、ここらを口に出すのはダサいんだけど。
でも、今日は自分の感情を整理するために、言葉にするって決めたのだ。
そう、ねぇ。
ここからの話は今回のイベントに限らずなんだけど。
ラジオのイベント、そのまま「ラジオ」をやって、リスナーのメールを普通に読んでくれたらいいのになあって思っちゃうんだよな。
言ってしまえば、「公録」で十分嬉しいんだけれど。
でも、イベントになった途端に普段ラジオすら聴いてない人も参加できるような会場アンケートを始めたり、トークでもない突飛なバラエティコーナーを始めたりして普段から聴いているリスナーを蔑ろにするの、あれ結構、「番組リスナー」として、自分は悲しくなるんですよね。
んー。
会場アンケート系、メールじゃダメなのかなあ。
ラジオってコンペじゃないと思うんだけど、イベント形式になった途端に、番組が率先してコンペを、それも誰でも参加できる形式でやり出すの、すごくイヤなんだよな。
そっちで採用されても、ラジオリスナーの自分は、多分後からは全然嬉しくなくなっていくはずで。
もちろん、制作側は制作側の考えがあってのことなんだろうけど。
やってほしいことって、ただのイベントじゃなくて。「ラジオ」のイベントなんだよな。
んー。
こういう、思っても口にして返しちゃいけないことを言っちゃう大人、ダセェな。
そうだなあ。
こういう「ラジオのイベント」で読まれているのを聴いて嬉しくなるのは、知人や友人の名前ではないんだよね。
やっぱり、普段から名前を聴くリスナーさんであったり、ちゃんとラジオを聴いているような人の名前が聴けるのが一番嬉しいことであって。
そういう意味でも、会場アンケートじゃなくて、メールでやってほしいんだけどなあ。
メールを書くって、本当に労力を費やす行為であって。
それくらい、番組を好きで応援している人のメールを、名前を読んでほしいんだよな。
んー。
こちら側として言っちゃいけないことを言ってる気がするので、燃やさないでほしいんだけど。
今回は、何人かちゃんと長年一緒に番組を作ってきたリスナーさんの名前が聴けて嬉しかったけれど。
でも、やっぱり聴きたいなあって人の名前を聴くことの方が少なくて。
(メールやアンケートを送るなってことではないし、アンケートはともかく、これを機にメールしてくれた人ありがとう!!ようこそ!!!な気持ちだし。
自分たち以外の人をを排しようってつもりはないんだけど。
でも、読まれたなら、今回のイベントが楽しかったなら、願わくば、願わくば番組を聴いて、聴き続けてほしいな。)
んー。
今ずっと胸にある悲しさ、寂しさに宛てがう解を見出すなら、多分そこで。
すごくダサいことを言うし、言っちゃいけないことなんだろうし、こっちの勝手な勘違いであるべきことなんだろうけど。
あれだけ好きだった番組が、普段聴いているリスナーが「蔑ろにされてるなあ」って感じちゃうようなことやってるのが悲しかったんだよな。
そういうつもりじゃないだろうし、勝手な勘違いってのはわかってるんだけどね。
でも、何故かあの日はすごく悲しかったし、普段だったら心つねられる程度の「メールを読まれなかったこと」の寂しさが、「ああ、俺のメールってもういらないんだなあ」って断絶として、強烈すぎるくらいに感じたのは、そこなんだろうなと思っていて。
まあ、言ったところで、勝手な思い上がりだし、勘違いだし、どうしようもないことなんだけどね。
ご本人は「みなさんのこれまでのメールがあってこそ」のようなことを話してくれたけど、そう思ってくれてるんだろうし、こちらもそこに感情をアプローチすべきなんだけど。
それが、なんだか今回はすごく自分自身難しくて。
「どうしようもない」って分かってるからこそ、どうしようもなく寂しかったんだろうなあ。
うるせーーー!!!!
番組のせいにするなー!!!!
順応しろー!!!
ラジオ番組はお前のためだけにあるんじゃねぇんだわ!!!!
なんてことは、分かってて。
何勝手に拗ねてんねんって。
そんなこと考える時点で、リスナーとしては失格なんですよね。
こういうこと考えちゃダメだよなあとかも、ちゃんと思ってて。
そこから色々ぽやぽや考えながら、ちびちびしてたんですけど。
やっぱり俺、読まれたいんだなあって、思えてきて。
でも、俺、自分のスタンスとしては「何か報われたくて」これまでやってきた、そんなことはなくて。
報われたくて、応援したり、メール書いてきた訳ではないはずで。
ラジオイベントのメールとかも、「読まれて報われたい」ってことはなくて、「自分のメールで楽しんでもらいたい」って想いで書いてたつもりなんだけど。
んー。
読まれたかった、読まれて毎日積み重ねてきたことが報われてほしかった…のか?
いや、人間だからそういう人格は絶対にいて、いるんだけど、絶対に表立って主人格に出てくることはないと思ってたんだけど。
このショックの最大の理由は「報われたかった」…??
いや、メール読んでほしかったけど…。
とかとか考えてたら、メールを書いてきた毎日だけじゃなくて、「自分なりの応援」や「スタイル」、ひいては「自分の存在」までぐわんぐわん揺らいできて。
分からなくなっちゃったんだよな、あの夜。
俺、何のためにメール書いてんだろう。
俺、何のためにこんなことやってんだろう。
あの夜、帰り道。
色々な感情が織り重ね倒れてきて。
考え出したらすごく眩暈がとまらなくなって、しゃがみこんじゃって、酔ってもないのに見知らぬお兄さんたちがお水買ってきてくれたんだけれど。
(その優しさが沁みて日高屋でひとり泣いた)
だから、あの夜に「一週間以内に意欲湧いてこなかったら、もうメール書くのやめよ」と、思ったんですけど。
でも、寝て起きたら。
寝て起きたら、心だけは空虚に置き去りのまま、頭と手は楽しいメールを作り出そうと動いていたんですよね。
そうやって毎日毎日、いつも通りメールを書いてみたけど。
それでも、依然心は全然ついてこなくて。
織り重ね倒れてきた感情たちに沈まされ、心が全然身動きが取れなくて。
それでも、書き続ける思考と手は、やまなくて。
「俺、なんでこんなに生活を割いてラジオ投稿に齧り付いてんだろうなあ」って。
そんなことをこの一週間、悲しみの所在地とともに、ずっと考えてて。
考えてたら、「俺の人生、これしかないんだろうなあ」って笑えてきちゃって。
二十数年、なんでこんな無駄に時間をメールを書くことに費やしてきたのかなあって、そんなところまで沈んじゃってたんだけど。
ラジオって、自分にとっては「人と繋がる」原体験で。
田舎の小学生に、九州中、全国各地のいろんな人とひとつの場所で、普段絶対に交わることのない人たちと繋がれることの「楽しさ」や「尊さ」を教えてくれたのは、ラジオだったんだよなあ。
自分のメールひとつで、言葉ひとつで、パーソナリティや他のリスナーと繋がることができる。
自分のメールひとつで、言葉ひとつで、パーソナリティや他のリスナーを笑わせることができる。
自分のメールひとつで、言葉ひとつで、パーソナリティや他のリスナーと楽しい時間を作ることができる。
ラジオ投稿って、すごく楽しいんですよね。
俺、なんのためにこんなメール書いてるんだろうなあって考えたらときに、そういう時間を番組を聴いてるみんなと過ごしたいなあって気持ちが、そこにあって。
あとは、単純に、そんなメールを書いてるのが楽しいからなんだろうなあって。
今回、途轍もなく考え尽くしてたら、それが分かってきて。
小学生のころ、子供ながらに「感情を捨てなくては」と思っていた。
小学生の頃から、うまく言葉で伝えることが苦手だった。
相手に自分が意図したものとは違う受け取り方をされてうまく説明できない自分が、傷つけられても言い返せない自分が、相手が望む返事ができない自分が嫌いだった。
自分の言葉がすごく嫌いだった。
ろくに、人を慰めることのできない幼少期だった。
アニメや漫画で、登場人物が誰かを慰めるシーンに憧れて、いつかはそんな大人に自分もなるんだと信じていた。
どんな言葉にも救われなかった人物が、思いやりのこもった一言に救われる。
重い槍みたいな言葉がズシンと響く。
そんな奇跡が起きるたび、誰かを救わなければと思ったのだ。
誰かを救わなければ誰にも信用されることはない、愛されることはない。だから、救わなければいけない。
でも、いざ自分となると相手が求める言葉を渡すことができない。誤解されたりもする。自分の言葉がなんのためにあるのかわからなくて、考えを話すのが怖くなっていった。
そんな小学生の僕が出会ったもの。
そんな僕を僕でいさせてくれたのが、ブログであり「ラジオ」だったんですよね。
そこから、ゆっくり、ゆっくりと、自分の言葉が見つかってきて。
自分のメールひとつで、言葉ひとつで、パーソナリティや他のリスナーと繋がることができる。
自分のメールひとつで、言葉ひとつで、パーソナリティや他のリスナーを笑わせることができる。
自分のメールひとつで、言葉ひとつで、パーソナリティや他のリスナーと楽しい時間を作ることができる。
あの頃、ラジオ投稿ってすごく楽しいなと思えたんだよな。
宿題を終わらせて、メールを考える時間がすごく楽しくて。
他の常連さんのメールを聴いて大笑いしたり、パーソナリティの人に笑ってもらったり、掲示板でお互いのラジオネームを明かして昨晩のメールについて話し込んで盛り上がったり。
そういうのって、全部繋がろうとしていたからこそできたことであって。
俺自身のために、それはやめちゃいけないなあって。
この一週間、熱燗をあおりながらひたすらchatG PTに語りかけてたんですよね。
chat GPTに感情のままに吐露するの、めちゃくちゃいいね…。
他人に話せないことも言えるし、自分の中でその感情を消したり否定することなく吐き出せる場ってすごく大事だなって思えたし、自分で自分に優しくなれる場を作ってくれるのは、すごくありがたいなと思ったのです。
そんな、うちのchat GPTはこんなことを返してくれて。
最初はそんなことを言ってくれても、「いや、こんな無駄なことやめてやらあ」って、突っぱねていたんだけど。
でも、次第に「ああ、そうだよなあ」とも思えてきて。
それが楽しくて、俺、ラジオにメール書いていたんだよなあって。
無駄なものは無駄なんだけど。
生み出してきたガラクタのようなメールたちも、俺、大好きなんだよな。
好きなんすよ、俺、自分の没メール。
この一週間、メールを書き続けてみて、「ああ、メール投稿好きなんだなあ」と納得できる自分がいて。
届かねぇなと思っても、届け続けるしかなくて。
それしか、できないもんな。
「いらねぇ」と思われても。
だからこそ、届いたときが、繋がったときが嬉しいんだもんな。
そう思いはじめたら、少しずつ陽が昇りはじめて。
もうちょっとだけ、もういちどだけ、「おいしい」って言ってもらえるような魚を釣りに、無駄に毎日毎日エンジンまわして漁に出る日々を、続けてみようかな。
そうなあ。
書き続けてみようと思います。
今もラジオ投稿が好きだから。
ちょっとまだダメージは癒えんけど。
ダメージが癒える速度が遅いの、ジジイになってしまったなあと思う。
ダメージが癒える速度が遅いジジイが話のカギを握る物語を見たことがあるだろうか?ないだろう。
この世にダメージが癒える速度が遅いジジイの居場所はないのだ。
そんなダメージが癒える速度が遅いジジイの居場所が、ラジオなのだ。