ストナー:私の名前は観察者、
現象と心象の中間に
位置する存在。
ストナー:あらゆる自然現象は、
何者かによって観察されねば、
その事象が記録される
ことは無い。
ストナー:私の名前は観察者。
あらゆる現象は、
私の様な中間に
位置する者の目によって、
観察されることでのみ、
その存在を未来に
残すことができる。
ストナー:君は、コーラリアンを
知っているか?
コーラリアンと呼ばれる
存在について、
我々が語れる言葉は少ない。
誰もが、それを、
まるで幽霊か
化け物のように語る。
ストナー:しかし、実際はいずれにも
あてはまらない。
コーラリアンを前にして、
我々の持つ語彙は、
圧倒的に少ない。
ストナー:君は、コーラリアンを
知っているか?
もし、我々に今の我々以上の
語彙が備わったとして、
しかし、きっと、
我々には、
それを表現出来ないし、
その感じ取った事を、
分かち合う事さえも
出来ないであろう。
ストナー:我々は、
コーラリアンの前では、
圧倒的に無力だ。
ストナー:言ってしまえば、
それは、砂漠の蟻が、
大空の先にあるものを
語るに等しい。
ストナー:しかし、
伝わらないからといって、
表層だけを語り、
本質から逃げるという行為に
満ち溢れたこの世界で、
それに則って言葉を紡ぐ事に、
いったい、どれだけの価値が
あるのだろうか。
ストナー:伝わらないなら、
伝わる努力をするべきだ。
その努力をしたく無いのなら、
永遠の沈黙をもって、
この場から立ち去るべきだ。
ストナー:それを、彼らは証明していた。
大波を待つライダー達にとって、
そこに存在している事が、
全てを言い表していた。
ストナー:全ては体験を通して語られる。
ストナー:既に用意された、
安易な言語でしか
表現出来ない彼らは、
その安易さの基に持ち合わせた
深い真実によって、
それを、
あえて言葉として表現する。
ストナー:何を語る? 真実?
しかし、それはあまりにも、
浅い言葉でしかない。
それを人は、
陳腐な言葉の羅列として
蔑むであろう。
ストナー:しかし、真実など誰がわかる?
目の前で起こった現象に対して
高尚な言葉で語る事。
それこそがその現象を
矮小化させている。
ストナー:現象は現象でしかない。
現象を語るには、
現象になるしかない。
ストナー:しかし、我々は、
現象そのものになる事は
出来ない。
現象は、我々以外の所にあり、
我々以外の所から、
発生するものであるからだ。
ストナー:そうなのだ、
現象は、
俺達がいなくても起こる。
ただそれを目撃した者達には
何かを残す。
それが、その者達にとって、
傷となるのか、
はたまた、
糧となるのか、
ストナー:それすら、波には関係がない。
(交響詩篇エウレカセブン 第14話 メモリー・バンド)
ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション
――どうして“喪の仕事”を描こうと思われたのでしょうか。『1』もレントンの父アドロックの死を描くところから始まりました。
京田:世の中にはなんらかの理由で親がいない子供がいますよね。死にせよ別の理由にせよ子供の前から姿を消した親はどんな気持ちだったんだろうか、ということを『ハイエボリューション』が始まる前からずっと考えていました。たとえば身近にも子供を残して亡くなった友達がいます。残された子供に、お父さんの友人だった自分がどんな言葉をかけてあげることができるのか。
結局、そこで言ってあげられるのは「君を忘れて行ってしまったわけではないよ」ということなんじゃないか。そういう思いを『ハイエボリューション』には込めたかったのですが、『1』の段階ではどうしてもそういう方向に持って行ってはくれなかった。
上映後にこのインタビューを読んで、自然と頷いていた。
それは監督が描きたかったそれがちゃんと描かれていて、そこに何かを僕が見い出せたからだと思う。
テレビシリーズから「エウレカ」では“喪”という営みは描かれていた。
しかし、今作ではそれが、石井・風花・アネモネという女の子を描くことで、より身近なものとして描かれている。
『死別』
テレビシリーズよりもっと現実世界に近い設定で描かれるその別れは、テレビシリーズのそれより数段と身近だ。
でも、それだけではないと思う。
劇中に「失ってしまったモノへの弔い合戦」という言葉がある。
言わばこれは、反抗作戦だ。
親兄弟、恋人、希望、夢、それは人それぞれなのだろう。
僕の場合、それは『自己』であった。
「君を忘れて行ってしまったわけではないよ」
「エウレカ」の話ではなく、僕がこの物語に見出した何かについて、書こうと思う。
本作は昨秋公開された『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』の続編となっているが、そちらを観ていない「エウレカ」をテレビで観ていた人にも違和感なく、そして何かを残す作品となっていると思う。
本作では『扉』が重要な描写として描かれる。
団地を駆け下り、父との秘密基地へと続くいくつもの扉を開けていくアネモネ。
そのいくつもいくつもある扉は、滑走路を発つ父との遠い別れを暗示させられるものであった。
アネモネの心に影を落とす父との最期の別れも、扉を開け出て行く姿であった。
それからアネモネはアシッドの隊員となり、唯一エウレカセブンに対抗し撃退できる活路、ダイブシステムによってエウレカセブンに伝送される。
その際にアネモネの前に現れたのは、父が消えていったあの扉であった。
指揮を執るミーシャは言う。
「ゲートの形状はダイブする人によって異なる形状で見えてくるものなの」、と。
ゴーグルをかけた際の、一瞬不安そうに顔を歪ませるアネモネが、人間味があって好きだ。
劇中に登場する好きなセリフが、いくつもある。
テレビシリーズであると、冒頭に引用した、やはり14話のストナーの語りだ。
僕らの感情にできない何かをまるで詩篇のように美しくメタファーを用いながら、でも的確に言い当てるのがこの「エウレカ」シリーズの魅力だ。
その中で、上映してからいちばん最初に何かを言い当てられたような気持ちにされたのが、このセリフだった。
ゲート、門は人それぞれだ。
ひとつ、僕の哲学の血肉となっている物語を紹介しよう。
「掟の前に門番が立っていた。この門番のところに男がやってきて、掟の中に入れてくれと頼んだ。だが門番は言った。まだ入れてやるわけにはいかんな。男はじっと考えてから、たずねた。じゃ、後でなら入れてもらえるのかい。『ああ、そうだな』と門番が言った。『でも、いまはだめだ』。掟の門はいつものように開いていて、門番がわきに寄ったので、男は身をかがめて中をのぞきこんだ。それに気づいた門番が、笑って言った。『そんなに気に入ったのなら、入ってみたらどうだ。おれの制止を無視して。』(中略:門番は最初の門番に過ぎず、中に行くたびに力が強くなるので押し入るのは大変だぞ的な意) 男は決心した。いや、やっぱり待つか。入ってもいいぞと言われるまで。」
(カフカ『掟の前で』 兵沢静也訳)
男は何年も待つのだけれど、結局ずっと入れないまま、時が過ぎる。
「とうとう男の視力が落ちてきた。実際に周囲が暗くなったのか、自分の眼だけが見えにくくなったのか、男にはわからない。しかし男は今いま、掟の門扉から消えることなく漏れてくるひと筋の輝きに気づいた。命はもう長くなかった。死ぬ前、頭のなかで、これまでのすべての時のあらゆる経験が収束して、ひとつの質問となった。これまで門番にしたことのない質問だ。(中略) 『いまさら、なにを知りたいんだ』と門番がたずねた。(中略) 『どうして何年たっても、ここにはあたし以外、誰もやってこなかったんだ。』門番には男がすでに死にかかっていることがわかった。聞こえなくなっている耳に聞こえるような大声でどなった。『ここでは、他の誰も入場を許されなかった。この入口はおまえ専用だったからだ。さ、おれは行く。ここを閉めるぞ。』」
僕らはいつも門の前にいる。
ずっと立ちすくんでいる。
そしてその門はいつだって自分だけのための「門」だ。
だから男が死ぬとき、もはや門に用はない。だから門番は門扉を閉める。
「ゲートの形状はダイブする人によって異なる形状で見えてくるものなの」
アネモネは扉を開け、エウレカセブンにダイブを繰り返す。
何度も何度も扉を開け、エウレカと対峙する。
しかし、実際それは外に出て行くことではなく、自らの内に入るということであった。
アネモネはエウレカと対峙していくたびに、内へ内へと扉を開けていく。
そして、いつしか扉の前で立ち尽くす。
アネモネはスカブと戦っていく中で、自分のやっていることを自問していく。
「考えるな感じるんだ、夢と同じだ」
あの輝きは目標地点を教えてくれる、必死にそこを見て進めばいいとドミニクは言う。
だが、足を引っ張る人間はどこにでもいる。
アネモネも足を取られ、失っていく。
自分を、自信を、平穏を、父や味方が遺してくれたモノを。
「私、がんばってるよね?」
アネモネは門の前で立ちすくんでしまう。
アネモネは次第に、「決まって泣いていて、『レントン』って叫んでいるの」という、女の子の、その泣き声を聞いていると仮想現実の人物だとは思えなくなる。
それはどこかエウレカに、父を失った自分の姿を見ていたのではないだろうか。
僕がアネモネが扉を開け放つ営みを外へ出ていく行為ではなく、内へ入っていく行為だと言う所以はそこにある。
そしてアネモネは、デューイの言葉通り、選択を迫られる。
世界か、父親とここでの共生か。
アネモネは立ち尽くしていた。
父親か、世界か。
「無理だよ、私にはできない、選べないよ、誰か教えてよ、誰か、誰か誰か誰か、返事してよ、返事しなさいよ、ドミニク」
エウレカは言う。
「何を選んでもそれはあなたの責任。苦しんで泣き叫ぶといいわ。」
そんなアネモネを救ったのは、自身への問の先に見た景色、開け放った門の先にあった父との思い出だった。
父が遺してくれたモノだった。
「人を裁いちゃいけない、そうすれば裁かれることはない。人を決めつけちゃいけない、そうすれば決めつけられることもない。赦してあげな、そうしたら自分も赦される。人は心の中の秤で他人を決めつける。誰かを決めつければその同じ秤で、他人からも決めつけられる。もしその秤で持て余すようなことがあれば、本当に助けてもらいたいと思ったら、教えるんだよ。駆けつけるから。パパがどこからでも風花の元へ飛んでこれる、魔法の言葉、それはなんというかというとね・・・」
立ち尽くしていたアネモネが、自身の秤では手に負えないと、助けを求めるその言葉を発したとき、扉の向こうからドミニクが現れる。
なぜドミニクだったのかはパンフレットでしっかり補足されているのでここでは多くを語らない。
今の話においてドミニクである必要は些事であり、スポットを当てたいのは彼が発したセリフだ。
「ありがとう、君が呼んでくれなきゃ鍵は開かなかった」
『扉』は救いの象徴だ。
ある者は外に救いを求め勇猛に扉を開け放ち、部屋に引きこもった者へは扉の向こうから救いがやってくることもある。
アネモネの場合は、後者であった。
いや、アネモネ自身はその後でエウレカに対して前者の行為を行うのだけれど、それはまた別のおはなし。
扉の向こうから現れたドミニク、父親の「君を忘れて行ってしまったわけではないよ」という言葉のメッセンジャーである彼によって、アネモネは地球を救う英雄でもなく、作戦が危機に直面した際に気を使って気丈に振る舞ってみせるような子でもなく、ひとりの子供にもどることができた。
このシーンも、とても印象的な扉を使った描写であった。
無意味から救い出され、存在することを迎えられる。
ドミニクの来訪は、意味は他者からやってくることを証明していた。
その承認があってはじめて、自分の存在が存在として認められる。
宝物はいつだって他からもたらされるモノだ。
そしてドミニクに続いて扉を押し入ってくるのはガリバー・ジ・エンド。
アネモネはガリバーを駆って、自在に飛び回る。それはエウレカセブン内で空を駆っていた姿そのままであり、夢と同じであった。
ドミニクは言う。
「君が望んだ力そのものさ、だから連れて行ってくれる、君が望んだところに」
自分への肯定が心の傷を癒し、強い自分を少しずつつくりあげていってくれる。
弱さはスプリングボードだ。
先天的であれ後天的であれ、自分に負の力として感じられるものが、自分の人生を前へと押し出してくれる力となる。
弱さは強さとよく言うけれど、弱さは克服しなければならないと言うけれど、弱いままに発揮されていく強さこそ、最強で誰しもを魅了するものだと思う。
ここから印象的な『扉』のシーンが続いていく。
ドミニクがエウレカセブンの攻撃に対して活路を見出し、「さ、必死に逃げようか」と口角をあげ、逃亡の末に扉を作りだす。
『扉』は逃げ口でもある。いつだって好きに逃げ込めばいいのだ。
自分が楽なリズムで孤独になったり孤独じゃなくなったりできるってのが僕は理想的に思えて、自分もそうで在りたいし、僕が好きな人たちにはそう在ってほしい。
そして、それは本質的には『逃げる』、ではない。
逃げる、のではなく、あそこへ取り付くため、ガブリとしがみ付くため。
現実に。
ガリバー・ジ・エンドは、一度も攻撃することはなかった。
逃げて、逃げて、攻撃を受けても必死に身体を支えて、そして、最後に齧り付く。
現実。
逃げる、退避して守るのだ、しっかりと現実に取り付くために。
そうして、アネモネは再びエウレカと対峙する。いや、今度はエウレカを救いに行く。
僕がこの物語で1番好きなシーンだ。
レントンを失った悲しみや憎しみのままに仕返しに燃えるエウレカ。
しかし、アネモネはそうではなかった。
父が遺したモノが、7年という時間で関わってきた者が留まらせた。
「TVシリーズの時のアネモネって、エウレカになりたかったと思うんです。」
というアネモネ役の小清水さんの言葉を思い出す。
思えばテレビシリーズでも二人は対になるように描かれていた。
そして、ここでのアネモネはテレビシリーズのエウレカであり、そしてエウレカはアネモネであった。
物語の本筋とは、「エウレカ」とは関係のない話をする。
僕はこの場面を、エウレカをアネモネの心の門の内に内在するアネモネ自身として観ていた。
エウレカはアネモネの内的人格であり、あの場面は別れに決着をつけ生きようとするアネモネが、別れに決着をつけられず自分の世界に入ってくるものは全て殺してしまい「あの人がいない世界なら」と世界の再生、自死すら望む自分を救いにいく。
自分で自分を救おうとするシーンだったと思う。
先のカフカの短編では、男が門の中に入ろうとするといつも門番が「いまはだめだ」と入場の時を遅らせる。
なのに門番は、この門は『おまえ専用だった』、と言う。
そして男が死ぬとき、門番は門扉を閉め、死んでいく。
では、この門番は誰なのか。
解釈を簡単に述べるとすると、門番もまた男自身、つまり自分だ。
しかし、中略で省いたが、この門番は男と全く違う容姿をしていた。
つまり門番と僕は同一ということではなく、でも僕と別の存在ではない、というとだ。
「この門番、おれに似ているな」とか認識できないレベルに違う容姿や性格をしていて、それでも自分とは別で無い存在としての、自分自身も知ることのない、しかし自分という存在の奥に深く存在する鏡像。
それが、門番である彼だ。
彼はいつも、門の前に立っている。
僕にはアネモネとエウレカが、門番と男の関係に映った。
エウレカの「どうして夢を見ちゃいけないの」という憎悪の叫びに充ちた問い。
エウレカの夢(=『レントン再生の試み』)がアネモネが住む世界に影響を与えていくのだけれど、それはアネモネとの生存権をかけた戦争、心の葛藤そのものでもあった。
アネモネはエウレカに、自分に向かって叫ぶ、「全部あんたのせいなんでしょ?!」
門=掟だとするのならば、門もまた人それぞれだ。そして門の前に僕らは立ちすくんで生きている。それはつまり、「問」ということだ。
アネモネは扉を通って、エウレカの元へと入っていく。
抜けた先の景色は、父と過ごしたあの団地だった。
エウレカは言う、「人は物や風景に自分の経験を結びつけ都合よく解釈してしまう」、これはエウレカがアネモネに感情を伝えるために、この空間はアネモネの記憶に根ざす風景なのだと。
ここに留まれば、ここでなら、父親と暮らすことができる。
それはアネモネによる、自身への問いであった。
アネモネは答える、戻ってきたのは留まるためじゃない、と。
ここには未来がない、と。
物理攻撃は効かないと知りながらアネモネのために時間稼ぎとして命をかけて仲間たちが守ってくれた未来、そして父が遺し繋ぎ、託してくれた未来が、ここにはない、と。
自分は自信のあるものとか、そういう美しいものだけで出来上がっているわけではない。悲しい思い出や悔しい思い出といったノイズだって、「私自身」をつくっている。
そのことを、アネモネは知っている。
「私は悲しい思い出も悔しい思い出も抱えて生きる」
それが、アネモネの問いであり、現状で出した最適解であった。
すると、エウレカは堰を切ったように無邪気に泣き叫ぶ。
何度繰り返してもレントンを再生できなかった身の上を、どうすればいいのかと、問いを泣き叫ぶ。
あの人がいない世界なら、世界がなくならないなら、と。
それは、7年前のアネモネであったなら一緒に泣き叫んでいた問いなのであろう。
その問い自身に、答えはない。
答えはないし、僕自身も、その問いに立ったことがないのでわからない。
劇中、ミーシャは
「生命は根源的に自死を望むものではない」と、宇宙規模の災害を引き起こそうとするエウレカのそれ否定する。
それでは、エウレカにそれをさせるものは何か。
それはひとえに、愛だ。
故にエウレカは、何度も傷つきながらレントンを再生しようとする。
生命を自死に駆り立てるのは、憎悪にも堕ちた、愛なのであろう。
「君が生きるのが苦しかった分だけ、君は世界を好きなんだよ」
そういうセリフが、僕の好きな『タビと道づれ』という漫画にある。
自死を選ぶモノたちは、それだけ世界を愛し期待し、故に傷ついていく。
結論がない問いだけれど、うーん、なんか、こう、うまくいかないわね。
でも、父親の残してくれた未来を一点に見据えて突き進むアネモネは、優しく自分に語りかける。
「私はあなたを死なせないためにここに来たの。過去をなかったことになんてできない。あなたをそうさせた呪いに、一生をかけ闘うなら、私はあなたの側にいてあげる、側にいて、そしてずっと一緒に闘ってあげる。」
「あなたと同じだから。私たちならできる気がする。」
それはエウレカ自身を否定するものではなかった。
むしろ、エウレカ自身を、自分の中の弱さという存在を無いもの扱いするのではなく、ちゃんと存在を肯定するものであった。
なんだか僕は、それがとても嬉しかった。僕自身も、そう在りたいし、周りの人にはそう在ってほしいから。
救いは、他者による承認だ。
それによって、他からもらうモノによって、自身を宝物だと肯定できる。
その最初の他者こそ、自分なのだ。
そう在るべきだと思う。
やっぱり、自己肯定、じゃないかな。
僕はそこに救いがあるんじゃないかと思う。
まさしく、あの場面はエウレカはアネモネ自身であったと思う。
そして、エウレカはこの世界を出て行く決意をする。
でも、エウレカは「わたし、この世界の出ていき方を知らないわ」と言う、「何度も試してみたんだけれど」、と。
するとアネモネは、「大丈夫、私出て行く方法を知っているわ」という。
出ていき方を知らないエウレカ
出て行く方法を知っているアネモネ
それはその二人の関係を考えれば、ごく当たり前のことであった。
場面は続く。
アネモネとエウレカがここを出て行く決意をしたとき、団地の部屋という部屋からダムの放水のように、数多のガリバーたちが雪崩れ込んできて、そして世界を侵食しはじめる。
僕は、ガリバーたちは自意識だと解釈する。
それはエウレカ≒アネモネ自身の自意識。
エウレカがここを出て行くとひとつの自意識を選択する。それは他の自意識を選択しない、ということでもある。
誰でも皆、自分の中に生まれた新しい感情を審判し適度に殺しながら生活している。誰しもが世界と迎合した時、他人から見た「現実の自分」と様々な感情、「在りたい自分」との間に折り合いをつけて生きている。そうやって適度に枝は剪定され葉は摘まれていく。世界で生きていくために。
ガリバーたちは、その切り落とされていく葉たちだ。
葉が摘まれてしまうのは仕方ない。
でも、その人の中ではでいい、その「その人になれなかったその人」が存在したことは認められてほしいなと思う。
「もっと明るく振る舞いたい」や「やり返したい」、「自分の好きを語りたい」。
でもそれは『自分』ではないと、そうやって死刑にするよりそんな感情を持つ自分を肯定してあげた方が幾分楽になれる。
この映画を観ていて。
なんだろうな、こう。
そういう風に、いつか僕も僕の手を引いて、ここを出ていきたいと思う。
相手を思い瞼の裏のスクリーンに映し出した姿は相手からすると虚像でしかない。
けれど、その虚像は相手への虚像でしかないけれど、それは本質的には自分の実像なのではないだろうか。
だからエウレカは自分では突破できなかったあの空間を、アネモネの中に自分の実像を見ることで二人で突破できたんじゃないか。
挿入歌のやくしまるえつこ+砂原良徳の『Ballet Mécanique』がとてもいい味を世界観に足している。
「ぼくにははじめとおわりがあるんだ」
ぼくらの物語には「おわり」がある。
それなのに、この物語の主題歌は『There's No Ending』(RUANN)だ。
おわりを自覚したぼくらの問いには、おわりなんてない。
「ここは現実よ、もう夢なんか見なくていいんだよ、これからは。」

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