2018年度 期末考査
(1)解を求めよ
僕にとってどんな存在の感覚なのだろうか。
僕は何者になりたいのだろうか。
日常の中で過ごしているとつい周りの意見に同調してしまう。
嫌だなと思う自分もなんとなく受け入れて次第に嫌だと思えなくなる。
感情を相応の言葉に濾過できないことが苦しくてありきたりで均一な言葉で妥協してしまう。
そうやって自分の一部が死んでいく。
感情と言葉の辻褄が合わなくなっていって自分が自分ではなくなっていって処理が追いつかなくなっていく。
よくわからないことに向き合って世界をきちんと味わいたいと思っていても、取り巻く環境は自業自得もあり、とにかく効率よく計画通りに進むことが最優先に設定されていたりする。
そしてそれとは全く正反対側の世界になぜか埋もれて生きていることに気がつく。
そんな世界では傷つけないための歩き方とか傷つかないための気持ちの折り方とか、そういった誤魔化しが身についてしまうし、なかなか世界に真剣に向き合うことはできない。
この手で掴めないものや失ったものに目をやらず今日も夜な夜な暗闇の天井をジッと見つめる。
知っている天井だ。「それは悪くない」「仕方ないことだ」と言い聞かせる。「だってそうじゃないと生きていけないし、生きてる世界はそういう世界だ」と言い聞かせる。「それでも・・・」、というその「・・・」の部分に突き刺さる使途不明名称不明な感情。
もらっているモノはその部分だと思う。
そして一生懸命にそのモノに宛てがう名前を考えるのだけれど相応の言葉が思いつかない。
そうしてその感情すら本物なのか疑いが湧いてくる。思考が滞り、止まっていく。
人間が思考することで物から『人間』という概念へと昇華を果たしたとするなら、思考が止まった者たちは物と変わらない訳で。
「物のように扱う」という言葉があるくらい僕らが物に対して少し優越感を抱いているように、もしかしたら物も逆のことを考えていて、物からすれば「者」は蔑称なのだろうか。
結局変われない僕らはどこまで行っても、何者にもなれずに「者」でしかない。
『羊たちの沈黙』という映画でアンソニー・ホプキンスが演じるレクター博士が次のような言葉を残している。
「欲望というのは自存するものではなく“それを満たすものが目の前に出現したとき”に発動するものなのである。」
僕らは自分自身の欲望を理解していない。人間は自分の欲望の数%しか言語化できていない。
本当に何を欲しているのか。そんなもの分かるはずもない。手に入れるまではそれを心の底から欲しているのだと知ることすらできないのだから。
普段言語化できていない自分自身の潜在意識。
猫に名前をつけたがるみたいに僕らは名前をそれに宛がうのだけれど、いつもどれも本当の名前じゃない気がする。
それはなぜだろう。
なぜその潜在意識に自分で名前をつけられないのだろう。
僕らは産まれたときに自分以外の他から名前をつけてもらう。
そんな風に、自分に名前を自分でつけるというのは僕らのシステムには組み込まれていないのではないだろうか。
ネームペンが自分の名前を自分で自分に書くことができないみたいに。
結局僕らはどこまで行っても名もない「者」でしかない。
しかし、僕ら者共はそんな暗黙知的な自分の潜在意識を言語化してくれるモノノケじみた人間に感謝し、好きになる。
世界はあたりまえのように在って、既に誰もが味わっている。
もしかしたら既に言葉巧みな人間たちによって味わいつくされているのかもしれない。
でも、やっぱり世界は味わいつくされていない気がするのだ。多分ディズ○ニーが言ってるほど世界は小さくない。
そんな世界を僕らがきちんと味わおうとするにはいつもとは違った「何か」が必要になるのだろう。
その「何か」との呼吸のやり取りの間に生まれるエーテルを媒介として、僕らは加速度を持って世界と繋がることができる。
僕にとって雨宮天さんって何者なのかって言われるとそんな「何か」なんだと思う。
そして古代語では、とても自分の中で言葉にできないそういう存在を「怪」と言うらしい。
そうやって僕らは誰もが「モノ」として存在している。それは「者」としてのそれであるのだけれど、しかし同時に「モノノケ」として、その「モノ」としてでもある。
少し強度が不足していて、今の段階では「モノノケ」まで達していないかもしれないけれど、その存在の助けを借りて僕らはモノノケになることが出来るらしい。
しかしどうやら狼男が満月の夜にしか変身できないようにその「怪」は外的要因でしかない。
オマケに僕らがモノノケでいられる時間は限られているのだけれど、「怪」が大きければ大きいほどどんな日常の凡時の中いつでも変身できるようになることが実験で判明した。
元気や勇気だったり、感情とか感動とか「頑張ろう」というやる気、僕らがもらっていると感じるものは全部『湧いてくると』と表現できる。
それらはもらっている様で本来の姿はずっと自分自身で持っていたモノ、探しているようで隠していたモノだったりする。
僕らが「もらった」と思うのは大多数が本来自分の中に持っているのではないだろうか。
僕らが「もらった」と思っているものは実はネームペンに似ているのかもしれない。
その助けを借りることで初めて、僕らは自分のネームペンに名前を書くことができる。
日常の煩事の中で、都会の雑踏でつい忘れ雨ざらしにしがちな心のパレット、自分の芯、そんなものをもう一度見つめ見出す機会や出逢い。それに触れることで意識の流れがさらさらと流れ始め、東京の人口密度を越えるレベルで密度は増していき、初めて生きることの勢いを得る。
僕らがもらっている宝モノはそんな存在としての感覚ではないだろうか。
雨宮天さんは僕にとってそんな存在の内の1人で、僕とは周波数が違うあなたにとっては誰かである様にそういう存在は人それぞれに居る。
人それぞれだから良いのであって。
人それぞれな、僕とは違う、あなたが感じるその人との関わりや宝モノを抱きしめていればいいんじゃないかなあ。
誰しもがそうやって潜在意識を言語化できないでいる。それは『怪』をくれる彼女たちも例外ではない。
じゃあ『者』である僕らと、爆発的なエネルギーで『モノノケ』になれる彼女たちとの違いってなんだろう。
僕は発想する力だと思う。
想いを発すること。誰の?自分の。
日々発想することへの情熱。
世界はいつも同じ様に聞こえているだろうか。
世界はそのたびごとに聞こえる。
世界はそんなに単純じゃない。
世界は単一ではなく多様。
多様だから簡単なひとつの回答はない。
だからそのたびごとに発想しないといけない。
世界は多様で伝えたいことも多様。
発想するには都度自分の中で新しく組立て直さないといけない。
既に言語化できている意識/簡単に見つけられる顕在意識では単純に競争力がない。長くは走れない。
全く言語化できていない意識/潜在意識にこそ僕らが長く走れるエネルギーがあるんだと実感することがある。
もちろん、顕在意識でももちろんいいはずだ。ありきたりな均一な言葉でいいし、そういう言葉だからこそ伝わる真っ直ぐさもある。
でも、「伝わる/伝わらない/伝えきれる」を抜きに、僕は顕在意識に置き換わっていく中で溢れていく感情の中に自分がある気がして自分のために掬いたいなと思った。
そしてやっぱり潜在意識の中に見えてくる自分がいる。
潜在意識を言語化するにはやっぱり他人のネームペンを借りる必要があって、そして何より自分にその存在を問う。そうすることでありきたりな顕在意識から1/銀河の感情を持てるなと思う。そうすることで見えてくる自分がいたりする。
『発想』には本当は適切な訳語があるだろうけれど、僕は発想って『Qreative』だなと思う。
『Creative』じゃなくて『Qreative』。
『創造』や『発想』の前に『Question』がある。
自分自身という、内への内への問いから始まる『発想』。そのトンネルをthroughして発露したモノは凄く心をうつ。
ブログやライブでのMCの発想に目や耳を向けているとすごくそのコトを実感する。
そして「僕も」と自分自身への問いに向かう意志をもらえるのだ。
そんな発想する姿勢を、僕は勝手に雨宮天さんに学んだ。
気がつくとそのお陰で昔よりちゃんと自分を好きでいられている気がする。
そういう存在、『怪』をくれる人は人それぞれで僕の場合雨宮天さんが僕にとってのその1人なのだけれど、そういう宝モノみたいな人のお陰で少しは自分を宝モノ、まではいかないけれど、他からもらったモノを嘘にしないよう宝モノにしないとなって思える。
自分がこんなにもたくさんの言葉を胸に抱いていたのだということをあなたに会ってから知りました。
そうして他からもらうモノを通して未知の自分に言葉ごしに会うことが嬉しかった。
苛まれて「自分は空っぽだな」と落ち込んでしまうことはどんなに大きな他からモノをもらっても絶対にあるのだけれど、ちゃんと底まで落ちてから
でも、穴を開けないと綴じられない。
きちんと穴が開いてないと綴じられない。
空いていたのではなく開けてもらったのだなあとふと思うと、すごく幸せでいられるというか。
人を嫌いになってもまた救ってくれるなというか。
思い切り言ってしまえば依存だしそこはそこで情けないなと思うから善いシステムにしたいなとは思うけれど、それは僕の問題だから抜きにして。
宝モノだなと思う。
そのお陰で底まで落ちても、いつもちゃんと上っていける。
そういう存在って在り難いモノだと思うから、本当にありがたい。
そして忘れてはならないのが他からもらっている者。宝者のような、素敵な人たちとの出会い。
僕が雨宮天さんからもらった1番の他からモノはそういう人たちの存在だと思う。
死ぬまで言い続けてやる、雨宮天さん、みなさん本当にありがとう。
『愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。』
(『好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎/講談社文庫))
強くその引用した文を感じている。
そのモノを強く改めて感じられるから、僕は毎年8月28日が大好きだ。
壁の向こうのこちらへ届けてくれることはとても嬉しく受け止めているのだけれど、雨宮天さんはすごく自分のために努力ができる人だと勝手に僕は思う。
「天才は努力する天才だ」とか言うけれどそれは別に誰よりも「努力をしなければならない」と痛感せざるを得ない場所にいるからというのもあるんだと思う。
それは『産みの苦しみ』も伴うのだろうし「まだ足りない」と誰よりも感じているのだろう。そういう渇望を知っている人というのはどこまでも人間としての“生”を感じる。
だからこそ、受け取らせてもらうモノはすごくあたたかく心の一等地に春をもたらしてくれる。
今はあまりそういう「努力をしなければならない」と追い立ててしまっているような勝手な感覚はもうない。
優しい言葉で仮装した仮想で創り上げた虚像を押し付けたり、勝手な思いやりで鍛えた重い槍を突きつけることもあったことでしょう。
それでもまた1年ちゃんと受け止めてくれてありがとうございます。
25歳の1年も壁の向こうに存在を置いてくれたらこれに勝る幸せはありません。
たくさん楽しみましょうね。雨宮天さんお誕生日おめでとうございました。
どうか穏やかな空気のベールが
包み込んでいますように。
きれいなものも
きたないものも
笑っていますように。
どんな人かは僕が感じていることは虚像でしかないし、今言葉にして返すべきはそのことじゃないと思えたので(受け取らせてもらっているものはちゃんと受け止めつつ)、今年も今の僕にとってどんな人なのか/存在の感覚なのかっていう文になった。
なんだろう、自分の中で8月28日ってそんなことを考え直す日みたいになっている気がする。そんな存在ってなかなか居ないから在り難いなあ。
何も名前もつけられない持て余すような密度の感情がずっと体の中にあってそれがずっと僕を支えている。
今でも名前をつけられないでいるその感情に、猫に名前をつけるように過ごしていきたいと思う。
美しいものを思い描いたりする日々を送ろうと思う。
いつかそんな日々がこれまでの道のように、小学生くらいしか知らない小道のように続いていたらなと思う。
そうやって、その人の人生の前に立っていられる言葉を探していけたらなって思う。
素敵な遺言を遺していけたらなと思う。
物語は自分自身にしか描けないが、物語は自分自身だけでは完結できないようにつくられているらしい。
その中に欠如を抱きそれを他者からもらったモノで満たしてもらうようにできている。
そんなモノノケ=他者になりたいと思う。
解:怪
8月28日。
存在の祭りだなあ。
2018年期末考査 以上。
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