雨宮天『永遠のAria』/『BLUE BLUES』に今見せてもらっている景色について(THE FIRST TAKE感想加筆版)



21年5月12日にリリースされた、雨宮天さんの11枚目のシングル「永遠のAria / BLUE BLUES」を聴いて、今見えてるコトについて。

 

『私はライブでは曲ごとの世界観を可視化したいんですよ。』

『それぞれの曲を可視化するようなステージにしたい。』

雨宮天「PARADOX」インタビュー|ポップに突き抜けた新境地の10thシングル - 音楽ナタリー 特集・インタビュー:取材・文 / 須藤輝)

 

と自身のライブパフォーマンスについて語っている雨宮さん。

 

「BRUTUS」読者なら常識なのですが、その様にライブで届けられたモノを、受け取ったモノを、こうしてブログで濾過する作業が僕は好きなのです。この作業は爆弾処理にも通じています。

 

あと、僕は「POPEYE」の方が波長合う特集多い気がします。

 

そして、それなら、今のうちに最初の衝撃を可視化しておけばもっと広く公演中に見えるかなと、お弁当箱に詰めてみるのです。


永遠のAria 

「誓い」(テレビアニメ『七つの大罪 戒めの復活』第2クールエンディングテーマ)

「Regeneration」(テレビアニメ『七つの大罪 神々の逆鱗』エンディングテーマ)

と、アーティスト活動でも携わってきた「七つの大罪」。

 

ついに、最終章『七つの大罪 憤怒の審判』にてオープニング楽曲を担当ということで。 

いやあ、嬉しいし、嬉しいだろうなあっていうのが、嬉しいです(´×`)

 

そうだなあ。

 

せっかくだし、MVを並べてみる。

この3曲の『曲の主人公』が同一人物だとは思わないけれど、大罪シリーズを懐旧しながら曲を視聴してみると、エリザベスに限らず、彼らそれぞれの物語の変遷を感じることができますよね。

 

イントロの力強さに塗りつぶされることなく、ピアノの音色が気高く繊細に紡がれていて、 この部分だけでも曲全体に感じる魅力を伝えてくれますよね。強さに負けない信念、みたいな。

instrumentalで聴いていてもすごく綺麗なメロディーですよねー。

 

歌唱に感じることは後々反芻していくので一旦公園で遊ばせるとして、あ、5時のサイレン鳴ったら帰ってくるのよ!

 

そう、ちなみになんですが、うちの地元では夕方5時になると消防車のサイレンみたいな放送が単発で市内に響き渡ります。

子供の頃、ちょっと怖かったんですよね。

 

だから、消防車とはすぐに聞き分けられないんですよ。

5時でもないのに消防車の音を「サイレン」と勘違いして、ベイブレード片付け公園から解散しようとしたことが幾多もある。

 

ちなみに、Oくんはベイブレードを野良犬に食べられていました。

 

でも、東京に出てきてから、もへーっと大学の講義受けてたら、5時に「夕焼け小焼け」流れだしたんですよ。

 

「5時のサイレン」が全国的なものではないと知って、僕は気を落としましたし、必修科目の単位落としました。

 

なんだよ「夕焼け小焼け」って。

 

渋谷の5時、うちの地元より可愛かったし、うちの地元は渋谷より怖かったよ。

 

それでは、聴いてください。

今週の第8位。

鈴木雅之&菊池桃子で「渋谷で5時」。

 

 

 

ということで、MVをこれから観ます。

 

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■メモ

みゅーずぃっくれーいん

冒頭の3秒くらいにある、モノクロから青を取り戻す演出、いい、この青、どっちの『青』

逆再生、時の流れを遡上、過去、抱えていたものが欠点でありすぷりんぐぼーど

2Bの慈愛

2サビ、微笑みながら歌っている感じすらおぼえる

ラスサビ終わり、一瞬漏れるもの

井戸

井戸に、おりてく、見つけてあげる感じ

└弱かったエリザベスが、意思から意志を経て

落とされた場所、から、井戸、でも考えられそう、だけどそこまでいくと卑屈すぎる感じ

最後に帯びた『青』、どっちだろ、両方だろうなあ

1さび「いくせんのときを〜」のひと、井戸そこにいるけれど、何か迎えにきてくれる者、離れたところで戦う友を信頼している感ある表情

2人いる?

└舞う天女と、井戸そこの人

(メタファー的に同一人物の内外の心情描写でもいけそ

 └「そのいたみわかるよ」

横の壁に手をかざす、井戸は縦ではなく、横、横にあなたの井戸、井戸、ひとそれぞれ

最後、真ん中には立っていないように感じる、2人で立ってる、大罪的にはみんなではなく、それぞれの相手同士2人でっていう絵が浮かぶ

漏れる白い息、絶唱感演出してていいね

---

 


んー、どこから考えていこうかな。

 

     

井戸のメタファーを彷彿させる感じで、僕はこの曲を受け取ろうかなあと思っています。

 

んー。

 

2人いるなと、思いまして。

 

当初、楽曲を聴いただけの段階だと『意志を持った人が誰かを想う歌』みたいな感じで、登場人物は1人かなあと受け取っていました。

 

でも、MVを繰り返し観てみると、「2人出てきてる映像の作りに受け取れるし、楽曲の解釈的にもそっちの方が波長が合うなあ」と思えてきまして。

 

ここでは、「彼」と「彼女」で呼称しましょうか。

 

映像上のシーン的には

  • 「彼」:水没した場所や壁の側や崖上にいたり、壁に囲まれているところで舞っている人
  • 「彼女」:円柱が並ぶ場所で舞っていたり、ラストシーンの人
  • 「彼」であり「彼女」:探し彷徨ってたり、険しそうな表情してるカットの人

 

『井戸』っていう観念は、言い換えるなら「誰にでもある、その人の抱えてる闇であったり欠落」かな。

 

自分自身と向き合うとき、「自らの内に入る」ことをやっていくことをやると思うんですけれど、そのメタファーが『井戸』。

 

一口に「自らの内に入る」と言っても、いろいろ「やり方」があると思うんですよね。「何か嫌なことから逃げる」とか「塞ぎ込む」「殻に籠る」「引きこもる」とか。

 

枚挙したものは一般的には『負』に分類されるものだけれど、「自らの内に入る」って裏地に返してあげれば、なんか『負け』じゃなくなるし、うん、いいことだよ。だいじょぶ。

 

そういういろんな「井戸の降り方」があるわけだけれど、この曲の場合は「向き合う」かな。

それも、肯定的なフレーズで。

 

 

「大罪」という作品で考えてみても、彼ら彼女らは「自分の使命や立場」「自分、相手の運命」、「自分が背負った罪」、そういったモノたちと「向き合う」ことを重ねてきたように思い出されて。

その都度、井戸に降りていっては修行したり、一生懸命考え抜いたりしてたようにも思うんですけれど。

 

彷徨って、時の流れを遡上して、そこで向き合った欠落や罪こそが「意志」や「決意」となり、スプリングボードとして彼らをより強き者に化かしていると思うんですよね。

 

 

そう、だなあ。

 

楽曲を聴いただけの段階だと見えなかったもの、大きく変わったのが、歌っている「彼女」の立ち位置かな。

 

もともと、この「彼女」が楽曲の主人公で、曲には出てこない「彼」を、その意志と愛で想った歌のように先行配信の段階では受け取っていたんですけれど、どうも事情が変わって。

 

「彼女」も、井戸の中にいるんですよね。

 

よくよく考えれば当たり前の話ではあるんですけれど、誰だって上記のような「闇」だったり「欠落」を抱えて、何か自分を罪に縛るように生きてると思うんですけれど。

 

「彼」も「彼女」も、シーン的には同じように洞窟(井戸)内にいるんですけれど、どうも同一人物の表情としては解釈できなくて。

 

誰しもが縦穴としての『井戸』を持っていて、そこでは「自分が孤独だ」と思ってしまいがちだけれど、実は隣近所には誰かの『井戸』が縦穴として存在している。

 

だから、横を掘れば繋がれるんですよ、誰かと、何かと。

 

ただ、井戸って縦に穴を掘るだけじゃなくて、地盤が崩れないように石を積み重ね、内壁を組んでるじゃないですか。

 

だから、繋がろうと横を掘っても石に阻まれ届かなくて、双方向からの掘削じゃないと繋がれない。

 

一方的には繋がれんのよ #人生

 

互いが縦穴で自分と向き合うことを経ての、井戸底での横の繋がり、それは心的な繋がりで、「愛」ってそういうもんだと思ってるんですけれど、僕は夢みがちでしょうか。

 

井戸ってそういうもんなんだと思うんですわ。

 

イメージ図的に、こんな感じ。

 


そうなあ。

 

MVでの表情を見ていると、「彼」も「彼女」も、相手が自分と同じように『自分の罪』と向き合っていることを解っているように受け取れるのですよね。

そして「きっと彼/彼女も、この罪を乗り越えるだろう」と確信を持った微笑みを浮かべている。

 

「彼」の場合、1番サビの「幾千の時間を超えても変わらず」の部分で映し出された表情とかは、なんだか、現在放送されている『七つの大罪憤怒の審判』にて魔界で戦っていたメリオダスを彷彿させて。

 

「彼女」の場合は、特に2サビ。

 

雨宮さんが声優グランプリ(21年5月号)の中で、

 

"「永遠のAria』となると運命をすべて受け止め切った後の、そのうえで「じゃあ、どうしていこうか」という状況なので、エリザベスはもう周りの人たちを率いていけるくらいの強さをもっていて。今までのエリザベスにも強い決意や思いはあったんですけれど、ただ信じるだけだったところから、もっと具体的な力や経験という裏付けがある状態での決意になっているので、そこの説得力が「永遠のAria」では増していたらいいなと思います"

 

と、お話されていたけれど、MVでの、あのフレーズを歌い舞っている表情が時折、慈しみを帯びた優しさを放っていたように僕の目には映って、それが凄く、衝撃として心をざわつかせたのでした。

 

そういう風に、想い合いながら「彼」も「彼女」も井戸(洞窟)の縦穴にいるイメージ。

 

そんで、2サビの「解るほどに 想うほどに 隔たりなど一途に超えていける」という歌詞。

 

これが、MV終盤にある手形に手を重ねて壁が崩壊するシーンを象徴しているようなフレーズだと思うんですよね。

 

あの手形、自分の手形じゃなくて相手(彼/彼女)の手形って考えると波長が合うなあ。

 

「解る」という行為って、英訳だと「understand(その者/物の下に立つ)」という風にネイティブの彼らは受け止めてますけれど、そういう行為だと思うんですよね。

 

だからこそ、2Bに「その痛みわかるよ わかるから分け合えるよ」というフレーズがありますけれど、それは「解る」からこそ出来る営みだと思うのです。

 

だから、相手が積み重ねてきた「痛み」に手を重ねた瞬間、壁が取り払われ、世界が繋がる。

あのシーンはそのようなメタファーのように感じています。

 

先程に図説した井戸構造、「横穴」という観念がまさにそれを言わんとしていて、「横穴」として深いところで、誰かと溶け合うように結び合うことができるのは、前提として「縦穴」でしっかり自分の抱えているモノと向き合ったから、があるんじゃないだろうか。

 

その横穴的な結びつきを「愛」だと呼称するのなら、真の愛っていうのは、墜ちた場所で他の誰とも似ていないこの自分をしっかりと生きて、真の経験を積み重ねることで生まれるものとも言えるんじゃなかろうか。

 

 

そんなことを、あのMV、互いに自分と向き合った先で、土壁の向こうで出会った二人に感じていたのでした。

 

 

そう、だから、最後に映し出されていた、惑星を眺めているかのような後ろ姿のカットは、「彼」と「彼女」二人並んで立っているように見えたのだよな。

後ろ姿の横にちょっとスペースがあって、真ん中に立っていないように僕は思えたのだけれど、あそこに「パートナー」が立っているようにも見えていました。

 


んー、そうだなあ。

 

曲を聴いていて印象に残ることは、やっぱり、A,Bメロの優しさで包み込むような歌唱と、サビの絶唱とのギャップ。

 

その点については、声グラ5月号のインタビューで、

 

「サビとAメロ・Bメロとの差も注目してもらいたいです。サビが必死なのに対して、Aメロ・Bメロはエリザベスを思わせるような柔らかさや、悲しみに寄り添うようなバラードチックな雰囲気があるので、その辺りの差も聴いていただけたら嬉しいです。」

 

とお話しされていましたね。

 

もうちょっと踏み込むと、その2つの強さこそ、あのMV上で手に宿していた2つの『青』かなと思ったのです。

 

んー。

 

まずは、包み込む色としての、暖色の『青』。

 

キリスト教の聖母マリアは赤い衣服と、そして必ず青いマントを羽織って描く、という約束事がある。

 

『赤色』は血、生命を産む母の色。

『青色』は天の色、つまり海や空、包容力を指し示す。

 

 

繰り返される生命の営みを人間の手の届かない領域で青が包み込んでいる、聖母マリアの宗教画にはそんな意味合いが込められていたりもする。

 

そういう風に僕らは、空や海といった『青』に包まれて生きている。

 

『青』は包み込む愛を表す色。

 

 

一方で、鋭く理想へ届こうとする、寒色としての『青』 。

 

 

空や海、僕らは青に包み込まれるように生きているけれど、それは光の作用でそう見えているだけで、近づけば近づくほどそこにあるのは透明であり、そこに青色はないことがわかる。

 

もともと『青色』という色自体が発明がほかの色に比べて遅いんですよ。

古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』において黒は200回近く、白は約100回、赤は15回程度、黄と緑は10回足らず登場しているのに対して、青色は唯一「深いワイン色」と形容されているのみでその記述は皆無。

 

それは顔料としても同様なんですよね。

 

ウルトラマリン・ブルーが人工的な合成法が発明されたのは1827年、ちなみにコバルト・ブルーは1804年のことだった。

 

このウルトラマリン・ブルーは、従来の蘭銅鉱(アズライト)を原料とする顔料の10倍もの値段、ほとんど金と同じ値段で取り扱われており、当時画家と注文主の間では予めその作品に用いる金とウルトラマリン・ブルーの量が決められていたくらい。

 

また、その合成法も画家たちから弟子への秘伝ものだったという話すら聞こえる。『青』という色は地球が誕生して以来最も人間と密接に関わりながらも、人間が再現し、作り出し、使いこなすのは困難で時間がかかった色なのんですのね。

 

同様に、薔薇やLED、さまざまな分野の色の発明において、『青色』はきまって最後。

 

その精製法の困難さや希少さも相まり、『青色』は手の届かない「遠い理想の色」と扱われてきたのです。

 

ボードレールという詩人が、代表作『惡の華』の1868年版に『イカロスの嘆き』という詩を遺している。

 

---

かの娼婦らが、いやしき情夫も、

満ち足りて、朗らかなるに。

このわれや、雲追うわざに、

つかれたり。

 

天空の奥深く、かがやけるもの、

譬えんにものもなき、かの星々にやけただれ、

わが眼、見ずなりぬ、

太陽の思い出以外。

 

空しくもわれ試みき、

天空の心と果しを、さぐらんと。

火の如き、眼の光に、

今わが翼、くだけ散る。

 

美に、あこがるる心ゆえ、身の焼かるるよ、

やがて、わが墓たるべき、この淵に、

わが名あとうる、せめてもの

名誉さえ、与えられずて。

---

 

詩人ボードレールは、太陽を目指して飛ぼうとしたイカロスの動機を、「美に、あこがるる心ゆえ」とうたっている。

 

身を焼かれてもなお、理想を求めて、手の届かない高みを目指す。

 

『青』を求めて手を伸ばし焼かれた、イカロスのように。

 

(そしてその掴むことのできない青の先にあるのは黒い海中であり、宇宙の漆黒、青を目指すということは「黒」を目指していることと同義だったというのが、また思考を巡らすに面白い所なんですけれど、話し出したら孫が成人してしまうのでやめます。)

 

 

エリザベスは上品で、深い慈愛に満ちていて包容力や母性のあるキャラクターで、どちらかと言えば前者の『青』の素養を持っていたキャラクターだと思います。

 

でも、冒険を重ねるにつれて、色々なものを与えて手放していくにつれて、鋭い意志に似た『青』も身につけていった。

 

雨宮さんが声グラ5月号のインタビューで

 

"最新のシリーズでは、たとえ敵であっても救いたいという気持ちが彼女にはあるので、どんなに技名を叫んでいても、絶対に殺意がセリフに乗らないようにしています。敵に対しても愛を持つのがエリザベスだと思うので、愛の部分を忘れちゃいけないなって。"

 

とお話しされているけれど、その途轍もなく「理想的」な、敵や味方の際限なく包み込まんとする愛こそ、エリザベスを彼女たらしめている所だと思うし、それを『理想』と終わらせない、「仲間を、大切な人を引っ張っていく強さ」を彼女は身につけて発揮している。

 

だから、MVにある「モノクロから『青』に色づくシーン」であったり、「2つの『青』を手に宿すシーン」はそうやって物語を紡いできたエリザベスと重なる部分でもあるし、個人的には雨宮さんに感じるその2つの『青』とも重なって、心を透明水彩のように清らかにしてくれる部分ではあるんですよね。  

 

 

んー、なんか、「僕はこう受け取った」を語りすぎてしまった感じがあるけれど、それくらい聴けば聴くほど解釈の井戸が深掘りされていくような、素敵で面白い曲でした。

 

いやあ、2Bの「その痛みわかるよ わかるから分け合えるよ 何も恐れず手を握って」の後ろから抱きしめてもらうような歌唱、大好きだなあ...。

 

そうねぇ。

 

あと、女性シンガーさんの「絶唱系」の歌唱、めちゃくちゃ好きなんですよね。こう、キューって締め付けられながら、想いの強さをぶつけられるような感じがして。

 

「女性に生まれ変わったら何がしたい」って言われたら「絶唱したい」ってくらい、好き。

 

 

今回の曲、その絶唱が本当に、その想いの強さが乗せられていて、曲の世界観を色付けていますよねー。

時折ライブで聴かせてくれていた絶唱、たまたま今スピーカーから『GLORIA』が流れているけれど、『GLORIA』や『Abyss』で聴かせてくれた低い音域絶唱での声色も好きだけれど、この高い音域での声色も好きだなあ。


BLUE BLUES

かっくいい...!!

 

初聴きでラジオから流れたときは、「なんだこれ、なんだこれ!」ってめちゃくちゃワクワクしたものです。

 

いや、また川添智久さんが降臨されてる...。

こんなベースぶつけられたら今すぐSTAND UP TO THE VICTORYしちゃう...

 

さっそく口遊んでは、肩で風切って歩いてます。

『火花』もそうだったけれど、雨宮さんが作った曲、口遊んでいるとめちゃくちゃご機嫌になっちゃう。

 

「ご機嫌な口遊」の曲というよりは、「雨嘯」って感じの曲かなあ。

 

雨にぬれてるのなんてお構いなしに、自分の気持ちに嘯いて歌う曲、みたいな。

 

 

雨宮さんが声優アニメディア6月号のインタビューで、

 

「実際、改めて自己紹介するかのような歌詞になったなと。けっして強くないし、ダメダメなところもあるけれど、でも野心を燃やして頑張りたい。この“BLUE”には、未熟者としての青さの意味もあって、Dメロもただの“青”ではなく、“青さ“と表現しています。未熟者でありながらも泥臭く突き進みたい、そういった私の根底にある想いを、曲のタイトルにも込めました。」

 

とお話しされていましたけれど、曲の初めから『泥臭さ』を全面に感じさせてくれますよね。

 

なんだろうな、こう。

雨水で泥々な足元を有刺鉄線を交わしながら這い進んでいるようなイメージ。

 

だから、聴き始めるともうすぐ、視線が上向いて、気持ちが前に前に進んでいく感覚にさせてもらっています。

 

 

日々生きていると、やっぱりダークな感情って溜まっていくもので、でもそういう感情ってそこかしこに好きに発散できるものではないじゃないですか。

 

 

でも、「そんなことを口にするもんじゃない!」と社会的には非難されても、その人の内側では、そういうダークな感情の存在は認められて欲しいところではあったりして。

 

まあ、自分自身もちゃんと自分に優しくなってあげたい所ではあるんだけれど。

 

でも、こういう「調子に乗せてくれる」曲を聴くと、ちゃんと自分にやさしくなりながら前向けるんだよなあ。

 

「Hey guys 暇人? しっかりしんがりよろしく」

 

ここの悪態、最高だなあ!かっくいいなあ!

こういう、なかなか口にしたくても出せない「悪態」に調子づけられるの、自分もその悪態を身に纏ってる感じがして、自分に素直になれるよね。

 

 

2番Bメロの

「麺シンク指タンス 迂回したのにクライシス 野次馬も乗りこなして加速すんだ」

 

とか言葉を初めて受け取った瞬間、それまで抱えてた瑣末な苛みですら、いろいろ振り切って笑えちゃうくらい清々しく面白さとカッコ良さがあるなあと思ってて。いや、天才。

 

その部分とか、「濡れ衣さも着こなして格好つけろ Are you ready to go?」とか、なんかもう、それまでそこに居た何かに萎縮していた者を、何か違う化け者にしてくれるようなエナジーがあるなあって。

 

頭蓋骨の中では悪態づいて、肩で風切って歩いていけるような感じ。

陶酔しきって、気取って、世界を仕切っていけるようなエナジー。

 

 

そんで、それを歌っているのが「雨宮天」さんなのが、やっぱり僕らにとっては重要なファクターであり、曲から受け取るモノをアンプのように増幅させ響かせている部分だと思うのです。

 

 

その人が語るからこそ重みが出る言葉とか、やっぱりあるじゃない。

 

「語り」は話し手に影響される。「誰が語るか」によって、語りが内包するモノは変化する。

「語り」とは話し手と聞き手の間に、共振的にひとつの場が励起することなのだから、それも当然だと思うんですけれど。

 

共通の磁場、っていうものかな。

 

 

要は何が言いたいって、僕にとってはこの曲が「雨宮さんが歌う曲」であるからこそ、より含意あるものとして受け取れるということ。

 

見せてきてもらったことや経験させてもらってきた懐旧と紐づいて、背中を押してくれるというか。

 

 

何を見つめたくてこんなにやってんだろう、とか。

何に煮詰めたくてこんなに考えてんだろう、とか。

 

何を掴みたくて諦めちまったんだろう、とか。

何になりたくて立ち止まったんだろう、とか。

 

ひとつ、たったひとつの句読点がそこに打たれて、向き合うべきモノに純度高く向かうことができるエナジー。

 

届けられたモノに触れたからといって、今自分の抱えている辛さや苦しみが解決するわけではないんだけれど、「やっぱり頑張ろう」という意欲や「泥臭くても進んでいこう」っていう気持ちが体の中から湧いてくる。

 

こちらへ届けたいものとして、雨宮さんがよく用いる「凄いもの」にはそういうエナジーがあるなあと、僕は受け取ったボールを磨いては思っています。

 

 

ひぃ、熱燗をひとつ。

 

あなたにもいるでしょう、そういう、いいひと。

お母さんは、あなたが選んだなら、そのひとがいいと思うわ。

 

 

いやあ、言葉遊びって楽しいよねえ。

 

1サビの「たまにdeny 出ない 最高」

2サビの「たまに dead night 出ない 再call」

 

ここの言葉遊び、もう狙い通り撃ち抜かれているんですよね。

大好き。大好きで意識を失いたい。

 

 

土曜の昼間から熱燗を飲むの、あっかーんね。

 

 

サビのコーラスも、ライブで天ちゃんバンド全員でコーラスなんてされたら僕はもうメロメロに惚れてしまう。

私はロマンチストなので、そういうのにときめきトゥナイトです。

 

 

ライブねー。

 

じろっち(宮永治郎)さんが編曲されているけれど、ライブでのギターソロめちゃくちゃカッコ良さそうですよね。未だに『Paint it, SKY』、『Queen no' cry』でのじろっちさんのハッチャケっぷりが肺の横ら辺にある大根に沁みてます。好きなので。

 

ライブと言ったら、「Hey guys 肝心! 手上げ盛り上げよろしく」から間奏を手拍子して、Dメロクラップのお遊びとかやったら楽しそうだなあって、今のところ思ってます。

 

どういう世界観で届けてくれるか、めちゃくちゃ楽しみだなあ。

 

 

んー、聴いててめちゃくちゃ楽しい曲ですよね。

落ち着いてられない感じがあって、スクイズのサインが出てるのバレてしまいそうです。

 

 

 

 

こういう、『青』もいいね。

 

 

 

『しんがり』って言葉、もっと掘っていけばこの曲に対する解釈も愛情も深められそうだなあって思いました。

 

まあ、「しんがり」って言葉は命を預けられるような仲間に使う言葉だと思うし、「自己紹介みたいな曲です」とお話しされている中でこういうフレーズを届けてくれたことは、勝手に、ふふんと受け取っているんですけれど。

 

勝手にね。

 

天邪鬼なので、ふふんとします。

 

So I have to go ふふふん

 

泥臭くでも意志は汚されずに進んていくその道、こっちはこっちで背中越しに感じながら、あなたからもらったものを贄に、地味に地道に自道を戦い抜いていくんで、雨天結構しっかりしんがりよろしく。



■THE FIRST TAKE『永遠のAria』

てぇへんだ、てぇへんだ!!

 

↑てぇへんだ!!

 

 

7月14日、THE FIRST TAKEにて『永遠のAria』アコースティック.verが届けられるとのことなので、心をごろごろと転がしたいと思います。

 

現段階ではまだ届けられていないので、お芋ちゃんみたいに、ごろごろです。

 

 

『永遠のAria』、アコースティックアレンジで聴いて見たかったんですよね。

 

以前、このお話は『一番星』についてだけれど、インタビュー記事で

 

"「一番星」はわかりやすくポップな曲でありつつ、青春感を漂わせたかったんです。仮に、今後この曲をライブでたくさん歌って明るい曲として浸透したあと、例えばバラードバージョンにして披露する機会があったときに「ああ、この歌詞って、実は……」みたいにじんわり響いたら素敵だなって。"

雨宮天「PARADOX」インタビュー|ポップに突き抜けた新境地の10thシングル - 音楽ナタリー 特集・インタビュー

 

とお話しされていたけれど、こういう原曲とは違うアレンジで届けられることで、見えてくる景色ってやっぱり違うよなあって思うのです。

 

だから、ちょっとだけ、お弁当箱に味噌汁を添えちゃうよ。

 


『永遠のAria』、普段聴けば聴くほど好きが募っていくんだよなあ...。

本当に、愛に溢れた曲で。

泣きそうになっちゃうね。

 

 

以前インタビューで

 

"キーを決めるとき、音域的にはひとつ下げたほうが歌いやすかったんですけど、高いほうが、オープニング曲らしい華々しさがあるよねって。そのときは全然歌えなくて「大丈夫かな」って思ってたんですけど、レコーディング本番までに練習して、なんとか歌って。気を抜く部分がなくて、ずっと張りつめてるような曲なので、歌い切ったときはヘトヘトでした(笑)。"

(声優・雨宮天、アニメ『七つの大罪』ヒロイン役でプレッシャーはねのけ躍進 歌手としての使命感も / ORICON MUSIC)

 

と、この音域で歌うことに対する苦闘を語られていましたね。

リリースイベントでも、折に触れてその部分の難しさを語っていらして。

 

前回歌唱された『PARADOX』でも(懐かしいほどに)めちゃくちゃ緊張されていたご様子だったけれど、今回はその「音域が高くて難しい」曲での一発撮りということで、怯えも想像では掬えないほどだったんだろうなあと勝手に思いつつ、そこに対して「挑んでいく姿勢」であったり、しっかり気持ちを切り替えてアプローチしていくプロとしての姿勢とか、すごく尊敬できるのです。

 

 

いやぁ、『PARADOX』での歌唱を思い出したらぼこぼこと気持ちが沸騰してきたので、猫たちしか知らないような脇道に逸れるけれどさ。

 

ほんとうにねぇ、あの緊張感がめっちゃ懐かしくて(笑)

 

懐古おじさんだから、ひとりで繭を吐くね。

 

 

いやあ、『PARADOX』歌唱前の”鳴き声”出されてる段階からもう、ニヤニヤが止まんなくてさ。

 

めっちゃこっちも緊張したけれど、めっちゃ嬉しかったんですよ、あの緊張感。

 

 

なんだろうなあ、こう、お友達のフォロワーさんが、

 

”なんか2014年のMUSIC FAIRの「歌うぞ、歌うぞ…」ってドキドキ感と、アカメが斬る!1話OP後のSkyreachのCM見たときの興奮がいっぺんに来たような、すごい時間だった”

 

ってお話ししてて、めちゃ頷けた感覚なんですけれど。

 

最近はもう凄みを増して、「ああいう緊張」をこちらにも見せてくれることが、思い出そうとすると「最後いつだ...?」ってなるくらい、んー、見せてくれることが減って。

 

そういう関係性になれた嬉しさもあったから、寂しさは感じてはいなかったけれど、実感としてはそういう懐旧もあったのだけれど。

 

 

そう、だから、『ああいう緊張感』を吹っ掛けられたの6〜7年ぶりくらいで(個人的には『Velvet Raysリリイベ』や数週後の『ソライロリリイベ』で語りが変わったイメージ)。

 

『あの緊張感』が、そこに在った優しい空気だったり、向け合う眼差し、ドキドキする心音を共有するかのような深呼吸がめっちゃ好きだったから、なんかもう、うん、嬉しかったんだよなあ。

 

 

そう、ねぇ。

 

そういう、「ドキドキ」って音が、ここまで幾度となく、僕を動かしてくれたのだよなあ。

 

このアレンジだからこそ、よりアクセントが効いていた優しい歌唱に、いろんな景色が流れてました(´×`)幸せ幸せ  



ひゃー

 

なんだろうなあ、こう、

 

圧倒、されたのでした。

 

んー、帰りそびれた月だけがお空に浮かんでいるんだけれど、なんか、そういう気分。

 

 

そうだなあ。

 

先の動画リンク先で雨宮さんが、

 

"一発録り、震えるほど緊張しましたが、こうして沢山の方に雨宮天を、雨宮天の歌を曲を、そして一緒に歩んできた作品を知っていただけることがとても嬉しいです。

『永遠のAria』は声優としてもアーティストとしてもとても思い入れのある曲であり、挑戦の曲です。

受け取ってください…!"

雨宮天 - 永遠のAria / THE FIRST TAKE

 

とコメントを寄せていらっしゃいますね。

 

なんだろうなあ、こう、このコメントを読んだことで、感じていた気持ちにキャプションが付いたのだけれど、すごく『声優:雨宮天』を感じる歌唱でした。

 

 

そう、だなあ。

 

 

 

『大切な作品』である七つの大罪に寄せた、雨宮天さんの想い、そのものの一端を垣間見させてもらったような、気持ち、というか こう、 「歌手である以前に声優として、曲の主人公の気持ちを丁寧に伝えていくことを大事にしていきたい」とずっと、よくお話しされているけれど、

8月13日にデビューシングル「Skyreach」をリリースする声優・雨宮 天にインタビュー!

だからこそ、

 

そう、だからこそ、

 

今回の歌唱に関しては、曲の主人公として、雨宮さんの姿が目の前に在ったんだよなあ。

 

大切な作品に心を寄せる一人の声優さんの姿を、強く、印象強く感じさせる歌唱でした。

 

素敵だった。

 

なんだろうな、言葉では替えの効かない感情なんだけれど、こういう素敵な光景を見れる体験が訪れることを、僕はとても幸せに感じています。

 

 

にゃー。

 

 

特に、これまでと異なる印象を届ける働きをしてくれたのはピアノかな。

 

原曲では寄り添うような優しさを強く感じさせてくれていたメロディーラインだったのだけれど、冒頭、Aメロ前の歌唱から「闇」を感じさせるように怖くて。

 

そのどんよりとしたメロディーに、こう、音楽用語わからんくて言葉が足りないんだけれど、アコギの感じが、闇を流れていく風のようにじゃかじゃか吹いてて。

 

でも、すぐそこにはアコースティック特有の優しい音色も、裏にはあったり。

 

なんだろうね、こう、闇も優しさと同じ様に、すぐそこにある感じを受けました。

 

そういうもんよね。

 

 

もう、2ABの、愛がすごい

 

だからこそ、「何も恐れず 手を握って」という言葉が、ズシンと向けられるね。

 

 

Dメロの、

 

んー、

 

感情はここにあるんだけれど、言葉がねぇ...。

 

なんだろうな、こう。

 

あそこの絶唱が、こう、受け止めきれない

 

 

先に書いた様に、今回の歌唱は『雨宮さんの大罪への想い』の一端を垣間見させてもらった曲として受け取っているんだけれど、その「垣間見た」っていう部分がここなんだよね。

 

受け止めきれなくて、途轍もなくて、慮りきれなくて、

 

 

 

それだけでいい、というか、ここはもう、受け取り手とか以前に、他人の言葉が不要な世界だなあって思えてます。

 

 

Dメロは「白と黒」の世界のように見えていたんだけれど、その直後、一瞬の無音、一筋の声が箒星みたいに流れていった後に雪崩れ込むピアノの音色が、世界を色付けていくようで、綺麗だったなあ。

 

あの春に、ずっといたい。

 

そのラスサビの歌詞が、歌詞のメッセージ性も手伝っているのだけれど、物語としての終着点であり、物語としての始まりを迎えた彼ら彼女らへの"この曲の主人公"からの送辞の様に聴こえて。

 

 

春は、いいね。

 

本当に、こう、大切な作品に向けた心からの"独唱"に、とても心を打たれた時間でした。

 

 

 

 

 

 

なんだろうな、こう

 

本当に、いつも凄いものを、届けて続けてくれているなあって。

 

そうやって『凄いもの』を届けてくれるたびに、届けられたものをエネルギーに桜のつぼみも膨らみ始め、穏やかな春の陽気をいつも感じさせてくれるのですよね。

 

何回、春きてんの?というか、あっという間に中学1年生なんですけれど。

 

 

 

ただただこの穏やかで優しい空気を纏ったまま日々を生きていたいけれど、人生、なかなかそうもいかないじゃない。

 

大人にならないと、いけないじゃない。

 

やっぱり、「にゃーっ」てなることもあるけれど、でも、だからこそ、こうしてたくさん凄いものを届けてくれることが、ちゃんとエネルギーになっています。ありがとう。

 

昔はちょっとその関わり方に苛まれることもあったけれど、今はしっかり「だからこそ」って、「よっしゃ!」って思えてます。ありがとうね。

 

 

 

がんばろ



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