木梨憲武お悩み相談「自分の才能や合う仕事がわかりません(22才男性)」 https://t.co/kxJKODkudn
— うじゃの (@ujauja43) April 19, 2018
“とんねるずの木梨憲武さんがTBSラジオ『ジェーン・スー生活は踊る』にゲスト出演。悩み相談コーナー「相談は踊る」の中で22才男性のリスナーからの「自分の才能や、自分に合う仕事がわかりません」という相談に対して回答していました。”(掲載先より引用)
わざわざこの素晴らしいやり取りを簡略に示す必要性が感じられないので、 リンク先の記事を踏まえた前提でつらつらと書いていきたいと思います。この先読みすすめて頂けるならお先に拝読して頂けると幸いでございまする。
「どんどん自分で動いちゃうしかないですね。」
木梨憲武さんの回答が凄く嬉しかったのです。そう、なんか凄くこの回答が嬉しくてですね。記事を読みすすめていく中で多分どこか潜在意識的にこの回答を切望していたんだと思うんです。
「そうそう、その通りだよね。」と。
少し話が違った話からアプローチしたいと思うのですけれど、以前読んだ本に歌人・穂村弘さんの『野良猫を尊敬した日』というエッセイ短編集がございまして。
穂村さんのエッセイは凄く面白くてユーモラスの中に強烈な気づきを秘めているのでぜひご一読を。
その中に『天職の世界の人々』と『シンジゲート』という短編が納められておりまして。
ブリコラージュしたい気持ちのために一部抜粋させて頂きます。
まず。『天職の世界の人々』
“ 天職に憧れていた。自分はこれをやるために生まれてきたんだ。心からそう思えるものが見つかったら、迷いも悩みも吹っ飛ぶにちがいない。また、使命に全力を投入するという喜びの前には、他の小さな欲望など溶けてなくなってしまうと思う。想像しただけでうっとりだ。”
“ 私から見て、そういう次元で素晴らしい活動を続けているクリエイターに会うと、眩しくてどきどきする。(中略)彼らの佇まいからは不思議なことに天職を求めて彷徨った形跡が感じられないのだ。「もしも、今のジャンルと出会っていなかったら、どうしていたと思いますか」とか(中略)尋ねる気持ちになれない。質問の意味が通じないんじゃないか。彼らを見ていると、脳や心というよりも細胞の一つ一つがギンギンに、「そうでしかありえない」感じなのだ。もしや、そういう人しか天職にはつけないのか。”
“ 天職の世界の住人たちに出会ったことで、私はますます不安になった。もしかして、全ては生まれつきなのか。最初から迷いなく自分のジャンルに向き合えない人間は所詮駄目ってことなのか。だとしたら、文筆で食べていけるかどうかずっと自身が持てなくて、十七年も会社員をやっていた私のような人間は、どうあがいても眩しい天職の世界へは踏み込めないのか。
でも、と思う。仮にそれが真実でも認めるわけにはいかない。生まれつきギンギンに別次元な人じゃなくても向こう側に行ける、と信じるしかないのだ。”
穂村さんは伺い知れる通り転職で天職を手にした方で。この短編がエッセイ集では一発目に来てまして、もう出会って数秒でひと斬りですよ、辻斬りですよ。
天職の人々を見てるとついついうっとりしちゃう傍らでどこかで「自分も」と思うのだけれど、そう思えば思うほど「どうあがいても眩しい天職の世界へは踏み込めないのか。」って心苦しさを感じることはあって。
だから「いつか自分に向いている仕事、自分の才能を活かせる仕事」を夢見ながら『自分にはどんな才能があるのかわからない。そもそも才能ってなんなのか?』という相談メールを読んですぐにこの短編を思いだし、「そうだよなあ」と斬りつけられズタボロになった感情を押入れから取り出して撫でていました。
当時この冒頭の短編を読んですぐに読むのやめたんですよ、辛すぎて。「あびゃー」って断末魔をあげながら布団に倒れ込んだんですけれど。
でも、この問題、穂村さんも感じられていた問題に対する答えというか立ち向かうべき姿勢が数ページ先の短編に書かれていまして。
『シンジゲート』
“ そして、ずっと待っていたのだ。或る日、自分のもとに届くはずの一通の手紙を、一本の電話を。「あなたには才能がある。前からすごいと思っていました。本を出版しませんか。」(中略)おかしい。どこかで誰かが必ず見てる、はずじゃなかったのか。見てる人、僕はここにいるよ、見つけて、早く、早く。(中略)もしかして、本当は、見てる人なんていないんじゃないか。一生このままなんじゃないか。”
“ 見てる人はいた。でも、神様のように見てるわけじゃなかった。見てる人の視界の中まで、こちらから、よろよろとよろめきながらでも出ていかないと駄目なのだ。しかも、それを何度も、何度も、生きている限り繰り返すしかない。初めての本作りを通じて、私はそのことを知った。”
会社員生活を続けながらも短歌を書いていた穂村さん。「見てる人」を待ち続ける生活から抜け出そうと彼は自費で『シンジゲート』という歌集を社会人になって三年で貯めた百万円を使い出版しました。そして半年後とある新聞の文芸時評にて「三億部売れてもおかしくない」と好評されるのですが、ただ本はほとんど売れなかったそうで。その中で、感じられた事だそうです。
「見てる人の視界の中まで、こちらから、よろよろとよろめきながらでも出ていかないと駄目なのだ。」
それが胸中の、漠然としすぎて名前もつけられないような気持ちを打倒する答えだったらいいなと思う。
突然ですが、ニーチェの『舞踏』に「問うな、踊れ」という概念があります。
昨日と何も変わらない今日が明日にすり替わっていく中で、人生の目的とか自分の行為の目的とか、いつしか釈然としない漠然とした「目的」を行為の先に、「何のために?」と問うようになりはじめた今昔。
何か目的のために現在があるという考えに息苦しさを感じていて、例えば小説やアニメの中の主人公は何か一つの目的を成さんと営んでいる。
そんな風に触れていると段々と人が、天職にいるような人がたまにフィクション的に見えることがあって。
現実を、人をフィクションのものとして見る癖が僕にはあったりするのです。
もしかしたら、というか潜在意識としてはフィクションとして自分とは異なる世界のものとして見たいのかもしれないねえ。
それは今でも調子が悪いとというか、多分それは誰しもが同じで遺伝子レベルで組み込まれた感情のスパイラルシステムなんだと思うのだけれど、誰も探してないみたいなので共感はないのでしょう。
夜の帳の内にいるとお喋りになってしまいますが、お話を戻しましょう。
自分にも何か一つの目的のために日々がなければいけないのではないか。
答えではないけれど、その気持ちとの付き合い方に『舞踏』があったのです。
多分目的などなくて。自分の行為がなんのためにあるのかとかそんなことは誰も知り得なくて。
そう、分からないんだよなあ。
きっとただ踊るしかなくて、踊る時間の中にこそ真実があるんじゃないかって。そこから真の目的が見えてくるんじゃないだろうか、と思うのだけれどその草むらから出てきた猫に未だ名前をつけられていない私。
僕はその様に気持ちに折り合いをつけてきたというか、折り合いをつけたかったというか。
そんな風な気持ちを聖火、ほど神聖なものでもないしどちらかと言えばもっと見窄らしいに極振りだと思うので、篝火、かな、篝火としてよろよろと見てる人の方へ何度も何度も弱々しく進んでいきたいなって願望はあるのですけれど、来た道が分からないのでもしかしたら帰り道を行っているのかもしれない。びゃー。
この木梨さんの言葉を目にして、「どんどん自分で動いちゃうしかないですね。」という天職にいる人の回答が凄く嬉しかったのです。
やっぱりそうだよなあって。
長く進むにはいっぱい足をまわすのが一番であるように、いっぱい当たりを引くにはいっぱいクジをまわすのが一番であるかのように、転んだりハズレを引くかもしれないけれどそこから学ぶことがあると前を向いて、「それでもさあ」とまわすしかないのだろうなあ。
そう思いながら、なるべく足をまわそうといろいろとやってみてきたつもりで。
自惚れる気なんてさらさらないのだけれど、時々こんな僕でも「見てきたもの」や「経験してきたもの」、「やってきたこと」を羨ましく言われることがあるのだけれど、そんな時に恐縮しつつ、それが正解だったのかは分からないのだけれど「やってきてよかったなあ」と思う。
自分の中では進んでいるような感覚はなくて、ひっくり返って自分がひっくり返っているのかも分からず進んでいるつもりで足を見苦しくバタバタとまわしているようなもので道化師みたいに踊らされているような時もあるのだけれど、うん、なんかでもそんな時って空が綺麗なんだよなあ。
何の話だっけ。
人を動かすエネルギーってなんなのかは分からないけれど、聖者の行進とまではいかなくてもとりあえず生きてる身として、鼻歌を口ずさみながら、うっとりするような世界へ生者の行進は続けていきたいと思う。
違うなあ、生者への更新となれば幸いです。
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