【映画感想】フリクリ オルタナ


大トロが食べたくなる。

『フリクリ オルタナ』を観た感想。

 

劇場版「フリクリ オルタナ」公式サイト http://flcl-anime.com/

 

特にネタバレは含まない。


『フリクリ オルタナ』感想

 

まず、『フリクリ オルタナ』の感想を書いていきたいと思う。

◇Introduction(公式サイトより)

モヤついている高校生・河本カナ。
嵐のごとく登場するハル子。その時カナの額にお花が生えた!
煙を吐きがら街をぶっ潰すアイロン。
毎日が、毎日毎日続いていくと思っていた・・・
力を手に入れたカナはアイロンをぶっ飛ばせるのか!?

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多分このIntroductionではよく分からないと思う。

「え、額から花?」

「アイロン?」

「これOVA観ないと分からない?OVA観れば分かる?」と『フリクリ』を観たことがない人は思うかもしれない。

大丈夫安心して欲しい。

フリクリは50周してもよく分からない。

100人いれば100人のフリクリが在る。

だからこそ僕はあなたにフリクリを観て欲しい。あなたなりのフリクリを見つけて欲しい。

 

今作のフリクリではハル子と17歳の女子高生たちとの物語が描かれる。

 

今作ではOVA鶴巻版とは異なり上村泰さんが監督を務める。作品を作っていく上で上村監督はハル子役として長く関わっている新谷真弓さんに意見を求めていたという。

「もともと鶴巻さんが作られた『フリクリ』っていうのは、プライベートフィルムみたいなものなので。違う人が作ったら同じハル子にはならないですよねって。それに対抗するには、上村監督のプライベートフィルムにするしかないって話になって」

 

上村監督が描くハル子は新たなハル子像を提示してくれている。

フリクリをはじめて観る人はハル子のブチ壊しっぷりを新鮮に楽しめるだろうし、フリクリを知っている人はそんな中にどこか新たなハル子を感じられると思う。 

 

あくまで個人的な考えだけれど、フリクリを観たことがない人は先にこの作品を観てからOVAにいった方がいいんじゃないかな。

 

フリクリ オルタナ→フリクリ→フリクリ プログレ→フリクリ

 

その流れがいい気がするなあ。あくまでご参考に。

 

 

簡単に感想を書くと

上村監督が作った『パンチライン』が凄く好きで随所で思い出す描き方があったり、ガイナックス出身ということで、『パンチライン』にもあったけれど、大好きな『トップをねらえ2!』を感じて勝手に拳握るシーンがあったり。そんな随所に入る他作品オマージュがフリクリするし、『パンチライン』のED映像が大好きなんだけれど、オルタナのEDのタッチが似てて笑顔になったなあ。そしてなによりやっぱりthe pillowsの音楽は最高だった。ずっと「Star overhead」をリピートしている。

 

映像も流石劇場版とても動きがあって構図も劇場ならではのスクリーン映えするものでもあり、とても楽しめた。

 

『フリクリ オルタナ』はとても好きな作品となった。

 

以下深掘り。


フリクリと言えばハル子の日常をブチ壊すかき回しっぷり。しかし、そのブチ壊しにより僕らはそこに当たり前のように在った『日常』を知る。

 

今作はその『日常』を知覚するキッカケとしてのハル子、インフルエンサーとしてのあの強烈な存在ハル子を懐かしく、そしてより強く感じられる作品になっている。

 

それにはハル子が関わっていく存在が、17歳という「モヤついている」女子高生たちだからというのが大きなスパイスになっている。

 

誰にでもあった17歳という青春時代というモヤついていた時代。これによって『フリクリ』に親しみがない人にも食べやすい癖のあまりない作品になっている。

 

今作においてハル子は言わば助演女優的な役割であって物語の主人公は彼ら彼女たちであり、僕らでもある。

 

 「カナちゃんたちの悶々とした日々を見ながら、皆さんにも青春ってこんな感じだったなと楽しんで頂けたら。ハル子さんと出会って、高校の友達と事件を通じて何かを知っていく様が、『オルタナ』の見どころのひとつかなと思います。」と、キャストの美山加恋さんは語っている。

 

 

17歳といモヤついている女子高生たち。

今作ではそんな彼女たちのモヤつきが、OVA形式のようにそれぞれの章立てにより描かれている。

 

 

いつもと変わらない日常。

未来というモノに「将来」という名前をつけるのを求められながら、彼女たちは昨日の寄せ集めの今日を生き、今日をオレンジ色の毎日に融かして磨り減ったローファーで歩んでいく。

 

そんな日常を生きるカナのスマホにはヒビが入っている。

 

友達は少しずつ昨日と違った明日を歩んでいく。

大人になっていく。

 

背伸びをした大人ぶった恋、大人になった先の夢を追う姿。

 

ハル子のブチ壊しにより、カナはこれまでの日常の中に含まれていたけれど見えていなかったミクロな、自分の知らない友達たちの『日常』を知っていく。

 

 

モヤついている高校生・河本カナ。

 

変わらない日常、毎日が毎日としてずっと続くわけじゃない。未来を将来にしていかないといけない。そんなのは分かっている。

 

今こそ踊らないといけない。

今こそ闘わないといけない。

 

それでも。

 

 

 

恋に悩む友達に、将来の夢に向かって努力を続ける友達にいちいち首を突っ込んでいくカナ。自分の将来を見据えずに。それは余計なお節介でもあり、彼女のモヤつきでもあり、そしてそれが招く友人との亀裂。

 

未来が将来になっていく過程において、いつまでも「友達のために」は通用しない。

 

変わらない日常なんてない。

 

そうやって僕らは大人になっていく。

 

 

そんな風にアイロンは迫ってくる。

「これまで」を無にして、真っ平らにしていく。

 

17歳という子供から大人への過渡期。高校2年生という少し中弛みしてはいるけれど卒業まであと1年しかなくて、なんだか焦燥感を覚えるあの頃。だんだん「大人」が近づいてくるあの頃。

 

17歳という時間を圧縮して「青春」というモノにカタチづけシワを伸ばしていくように、変わらない日常を壊そうとアイロンは迫る。

 

同時にアイロンの握り主はカナでもあったと僕は思う。

「変わらない」を選択し子供であることを志したカナによって、日常は普遍的に変わらないモノに圧縮されていく。明日は昨日の寄せ集めとなっていく。

 

 

 

作中、ティーンな若者たちが想い想いを吐露していく。まさに「青春」と大人が名付けたがるソレ。

大人はネコと青春に名前をつけるのが大好きだ。

 

その数々の吐露の中でもクライマックスにカナが大声で叫んだあのワンフレーズが大好きだ。

 

身震いがした。

それはなんだか、僕には叫べなかった叫びだった。

 

僕らはあのとき、そんな見慣れた景色をちゃんと「大好きだ」と叫べていたのだろうか。

 

シワひとつないYシャツを着た僕は、エンドロールの中あの頃と同じthe pillowsの曲を耳にしながら、あの頃と違うことを考えていた。


17歳の女子高生たちを見ていると

大トロが食べたくなった

青春は吐露から始まるのかもしれない

トロは高い BIGになるほど払う対価は大きくなる

いつも気を遣って安い皿ばかりとっていた

大人になって気付いた 大人になると味覚が変わる

いろんなセンスが備わり味覚が変わる

大人になると大トロは美味しくなくなる

取るべき皿はAだとかBだとかじゃなかった

「人生のピークは17歳」と

アイルランドの詩人は言う

けれど

「大トロを食べるべきピークは17歳」

ということなんだ

 

 

 

青春は吐露から始まるのかもしれない 

トロは美味い BIGになるほど見返りは大きくなる

トロは握られる 誰かがしっかり握ってくれる

でも

なんかトロより大トロの方が高いんだし

もっとしっかり握ってくれる気がする

多分しっかり手のひらであたたかく

包んでもらった大トロの方が美味い

そしてその手が自分の好きな手なら

尚更なのだろう

 

 

青春は吐露から始まるのかもしれない。

トロは赤い

青春は赤から始まる

青い春なんて、

そんな在り来たりなAだとかBじゃない

赤から、遠い遠い、青への物語を

青春というのだろう

手を流れる情熱の赤を遠い遠い青空に

そっと伸ばすみたいな

そんなものを青春というのだろう

 


『フリクリ』という何か。

  

「フリクリって何だ?」何がフリクリで、何がフリクリでないのか、それがわからない。僕にもわからないのだから、おそらく誰にもわからない。だからもしもフリクリに続きがあるとするのなら、それはフリクリとは何かを探し確かめようとするような物語になるでしょう。

(『フリクリ オルタナ』映画パンフレットより引用)

 

 

鶴巻監督はそう語っている。

少し僕のフリクリを考えてみたい。以後思いっきりネタバレを含む。

 

今作において好きなのが、アイロンの存在である。

 

フリクリが公開されたのは20世紀から21世紀への過渡期。

 

僕は当時小さな子供だったしあまり覚えてないけれど、当時のアニメ(特に『serial experiments lain』とかね)映画や小説、当時の人のブログを読んでいくと当時日本を支配していたのは新世紀への期待感じゃなくて、当たり前だったものが崩れていく退廃的な感覚だったんじゃないかなと思う。

 

 

メディカルメカニカっていう製薬会社の所有物であるアイロン。

宇宙の星々を意味も無く真っ平らにしてる組織の所有物であるアイロン。

 

それはまさに、当たり前だったものを無にしていく退廃的なアイコンとして描かれていたように思う。

だからこそ、今作においてアイロンの使われ方は結構好きだったりする。

 

今作において初めアイロンは大きなショッピングモールの装っている。

田舎において、例えば「イ○オンができると田舎」と言うけれど、イオ○ンとかそういう大きなショッピングモールができることは街の大きな転換になる。

 

イオン○ができること、そこに期待感はあるのか。地元の商店とかそれによって廃れていく日常もある。 当たり前だったものがどんどんと崩れていく退廃的な感覚がそこに顕れている。

 

アイロンにそんな象徴としてのショッピングモールの殻を被せておくのは面白いなあと思った。

 

そしてそれは先述した「変わらない日常」を壊していくアイコンとしてのアイロンであり、カナの選択は逆に日常を「変わらないモノ」へと押し張り付けていくアイコンとしてのアイロンでもあったのではないだろうか。

 

 

先程述べた

「あのアイロンを握っていたのは、カナでもあった」というのはそういうこと。


オルタナに描かれていないもの

 

フリクリを知ってる方はここまで読むと違和感を感じていると思う。

 

あまり『フリクリ』らしくない、と。

 

 

フリクリにおいて、ハル子の絶対の目的は「アトムスク」を手に入れることだ。

 

地球の存亡なんて二の次で、その目的の成就のためにはかき回すだけかき回し好きな男を自分のものにするためなら地球ひとつ滅びようが何とも思わない女がハルハラ・ハル子という生物だ。

 

しかし、今作ではそんな彼女の姿が大きく欠如している。

 

それはもしかしたら『オルタナティブ』という言葉通りこの作品が平行世界という描き方をされていたりするからかもしれない。

 

 

学校や周囲の環境に束縛される子供と違い、永遠の自由時間を手に入れた存在としての大人。子供であったナオ太にはそのように世界が見えていたし、その象徴がハル子だった。

 

『オルタナ』にはそんな果てしなく自由に見える彼女が存在しない。

 

そこに欠如しているのはアトムスクへの執着である。

 

 

この作品において17歳の女子高生たちの物語は描かれている。

でも、そこにはハル子の物語は描かれていない。

 

ハル子は誰かに対して従属する存在ではない。

「今作においてハル子は言わば助演女優的な役割であって物語の主人公は彼ら彼女たちであり、僕らでもある。」と書いた。

 

フリクリにおけるハル子とはそんな助演女優的に従属する存在ではなくて、彼女自身も物語の主人公であり、僕らの物語にもぶつかってくる、過言するならば自分の物語とは相容れない敵みたいな存在とも言ってしまえる。

 

そんなもっと自由な象徴としてのハル子の姿はあまり感じられなかった。

 

 

その点において賛否両論が湧き上がっている。

 

僕のスタンスとしては「そんなハル子もありじゃん?」だ。いるんじゃない?って感じ。

 

その思考へのアプローチは正規ルートではない。

 

『オルタナ』が公開される数日前に僕は『プログレ』を試写会で観てきた。

 

『プログレ』の内容は詳しく言わないが、そこで描かれているのは二人のハル子。

 

好きな男を自分のものにするためなら地球ひとつ滅びようが何とも思わない女がハルハラ・ハル子と、そんな彼女を止めようと窘めるハル子。

 

彼女たちはハル子から分裂したハル子たちであった。

 

自由の象徴であるハル子にも、後者のようなハル子が居る。この作品は僕にそんなハル子像を与えた。

 

先にそちらを観ていたからこそ、僕は『オルタナ』で描かれるハル子に寛容的であるのかもしれない。

 

確かに残念な点ではあるけれど、『オルタナ』の中でのハル子がしっかりブレなく描かれているからこそあまり大きな違和感はない。僕は『オルタナ』のハル子もすごく好きだ。

 

 

だからこそ、初めにかいだけれど『オルタナ』で描かれているハル子はアトムスクに出会う前のハル子って捉えてるのかな僕は。あの腕輪をしていなかったし。

 

そういう意味でも、鶴巻版の前と認識しているのかもしれない。

 

 

好きな男を自分のものにするためなら地球ひとつ滅びようが何とも思わない女、ハルハラ・ハル子。試写会で見た限り『プログレ』ではそのハル子がしっかり描かれていると思う。

 

何より 「Thank you, my twilight」の使われ方がとても心を揺さぶる。

 

フリクリが好きな人は『プログレ』の方が好きなんじゃないかな。かと言って、今作の『オルタナ』は見逃してはいけない作品だとも僕は思う。

 

そのブチ壊しにより僕らはそこに当たり前のように在った『日常』を知る。その本質は変わっていない。

 

ぜひどちらもご鑑賞頂きたい。



まずいラーメン

公開前に久々に小説版を読んだ。鶴巻監督の元、『フリクリ』脚本を務めた榎戸洋司さんは、小説版3巻のあとがきでこう綴っている。

 

 大人になって“子供であること”を失い、それでもまだ“限定された存在”である僕たち。

 でもだからこそ限定された存在であることに胸を張りたいとも思います。

 限定された存在であることはけして本当の豊かさを手にすることの障害ではない。

 貪欲な意思と何者にも支配されないあの自由なハル子の目が示してくれたのは、逆にそのことのような気がするのです。だって彼女ですら、やはり限定された存在でしかないのにそれでも暴走人生を送っているのですから。

「ときにはまずいラーメン食ってみたりするのも人生の豊かさってやつ」

 そう言って笑うことができるのは、なんだかカッコイイ大人のように見えるのです。

 心豊かな新世紀となりますように――。

 2000年12月14日 榎戸洋司

 

 

鶴巻版においてアマラオがナオ太に対して「大人ならわかるはずだ!」と叫ぶなか、彼はそんな声を聞き入れずハル子へと走り、彼女に告白し、キスをする。

 

この場面がナオ太が「子供らしく」生きることに目覚めた瞬間であるならば、鶴巻版のナオ太が「変わること」を選んだのとは対照的に、『オルタナ』のカナは「変わらない」ことを選択した。

 

これは言わば、カナにとっては今のまま「変わらない」ことが「子供らしく」いることだったんじゃないだろうか。

 

 

オルタナティブ。

 

二者択一。

 

あなたは、どちらだろう。

 

 

僕は自分がそのどちらでもないように思う。

自分を重ねるなら、今作で言うとペッツだなと思う。

 

富裕層であり火星への移住を控えたペッツ。金銭的に恵まれていながらも彼女にとって家族はあまり居心地の良い環境ではなくて、だからこそ、独り火星へ移住しても者ではなく物を通してみなを感じたいという思いが物物交換に現れていた通り、彼女にとってはカナたちとのコミュニティーが唯一自分で居られる、居たいと思える場所だったんじゃないかな。

 

それでも、彼女は大人にならないといけなかった。

切り離すべきモノを切り離さなけれいけなかった。

 

その時間を燃料にしてまで、燃料を切り離してまで宇宙へ飛ばなければならなかった。

 

大人ぶっていたナオ太や今作のヒジリとは少し違い、「大人にならざるを得なかった子供」としての、大人になることを宿命づけられたペッツ。

 

 

彼女に完全に自己を投影できるほど自分は大層な人間だとは思わないけれど、そんな風にして大人になった気がする。

 

ペッツには今のまま「変わらない」ことを望んだカナがすごく眩しかったんじゃないかな。

本当はカナになりたかったんじゃないかな。

 

カナはずっとヒビの入ったスマホを使っていた。ヒビが入っていると分かっていても、なお望む変わらないモノ。

 

そんなカナが引き寄せた世界。

 

多分僕はそれが凄く在りたかった姿で、それは僕ができなかったコトであった。

 

 

さらに、僕は『オルタナ』のハル子が大人になって“子供であること”を失っているようその者として映った。

 

それでも映し出されていた彼女は“限定された存在”、限定された存在であることに胸を張っていたように思う。

 

ハル子と同じように大人になって“子供であること”を失い、それでもまだ“限定された存在”である僕たち。

 

でも僕が自分を「ハル子」だと感じない要因は『限定された存在であることに胸を張っている』のか否かの一点においてだ。

 

冒頭で考えた『フリクリ オルタナ』から『フリクリ』という考えは逆コースかもしれない。

それでも僕は、『オルタナ』で描かれた限定された存在であることに胸を張っているハル子がアトムスクと出会い、『フリクリ』の世界で「ときにはまずいラーメン食ってみたりするのも人生の豊かさってやつ?」と暴走人生を送っているのはなんだか合点がいくのだ。

 

 

何もハル子みたいに暴走人生を送りたい訳ではない(こともないかもしれないという破滅願望はどこかにあるけれど)。

 

僕らはハル子ではない。

 

だからこそ限定された存在であることに胸を張りたいとも思う。

 

「ときにはまずいラーメン食ってみたりするのも人生の豊かさってやつ?」って笑いながら、カッコいい子供じみた大人に、少しでも近づいていきたい。

 

心豊かな、新時代となりますように__。