「それでも」について~雨宮天『Song for』


本日1月16日にリリースされた雨宮天さんの7thシングル「Defiance」、そちらのカップリング曲「Song for」を聴きながらそよいだ感情について。

     

 

◆雨宮天ニューシングル「Defiance」

2019年1月16日発売

ソニーミュージック 雨宮天公式サイト

ディスコグラフィー『Defiance』

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青いなあと思った。

 

以前雨宮さんは『青色』に込めてきたものとして『意志』と答えられていて、僕が雨宮さんに多く見てきた『青色』はそういう、鋭く理想へ届こうとする『意志』だった。

 

 

その限りにおいて僕はこの曲は青色ではないと思う。

 

 

一方で、僕はこの曲が雨宮さんがこれまで歌われてきたどの楽曲の中でも、最も『青色』をしている曲だと思う。


『青色』について話す。

 

空や海、僕らは青に包み込まれるように生きているけれど、それは光の作用でそう見えているだけで、近づけば近づくほどそこにあるのは透明であり、そこに青色はないことがわかる。

 

薔薇やLED、さまざまな分野の色の発明において、『青色』はきまって最後だ。

 

もともと『青色』という色自体が発明がほかの色に比べて遅くい。古代ギリシャの叙事詩『オデュッセイア』において黒は200回近く、白は約100回、赤は15回程度、黄と緑は10回足らず登場しているのに対して、青色は唯一「深いワイン色」と形容されているのみでその記述は皆無だ。

 

 

それは顔料としても同様だ。

 

ウルトラマリン・ブルーが人工的な合成法が発明されたのは1827年、ちなみにコバルト・ブルーは1804年のことだった。

 

このウルトラマリン・ブルーは、従来の蘭銅鉱(アズライト)を原料とする顔料の10倍もの値段、ほとんど金と同じ値段で取り扱われており、当時画家と注文主の間では予めその作品に用いる金とウルトラマリン・ブルーの量が決められていたくらいだった。

 

また、その合成法も画家たちから弟子への秘伝ものだったという話すら聞こえる。『青』という色は地球が誕生して以来最も人間と密接に関わりながらも、人間が再現し、作り出し、使いこなすのは困難で時間がかかった色なのだ。

 

海や空と、僕らは『青』に囲まれ生きている。

 

だが、海水を掬っても透明であるように手を天に伸ばしても届かない。

 

またその精製法の困難さや希少さも相まり、『青色』は手の届かない「遠い理想の色」と扱われてきた。

 

そしてその透明で掴むことができない青の先にあるのは暗い海中であり、宇宙の漆黒の黒闇だ。

 

「Blue hour」をご存知だろうか。

夜の暗闇と朝の光の間、また昼の明かりと夜の暗闇の間、とても濃密に青が広がる時間帯がある。

 

もともとこの色に「青」という字があてがわれたのには諸説あるが、次のような説がある

 

 

大和語のアオ】

「アフ=会う・合う」、もしくはその連用形「アヒ=間(隣り合う)」の意

 

【アイヌ語のアオ】

黒と白の範囲の中間色を意味する「間(アヒ)」からきているとされている。

 

黒と白、隣り合う闇と光の間、それが青だ。

 

 

繰り返し僕が何度もこのことを書くのは、僕が雨宮さんがすごく『青色』を体現しているなと思うその点においてである。

 

この人が暗闇を光の方へ手を伸ばし進むとき、濃密な青が立ち現れる

 

その点において、僕はこの曲が『青色』ではないなと思う。

 

 

また、あなたはキリスト教の聖母マリアは赤い衣服と、そして必ず青いマントを羽織って描く、という約束事をご存知だろうか。

 

『赤色』は血、生命を産む母の色。

『青色』は天の色、つまり海や空、包容力を指し示す。

 

 

繰り返される生命の営みを人間の手の届かない領域で青が包み込んでいる、聖母マリアの宗教画にはそんな意味合いが込められていたりもする。

 

 

もし勘のいい人なら、教会のステンドグラスに『青色』が多く用いられている理由も勘づくだろう。また、青色顔料は希少で高価なものでしたからそれを用いて書くことで、聖人への畏敬の念も込めたのかもしれない。

 

この限りにおいて、僕は雨宮さんが時折見せる『青色』が好きだ。

この限りにおいて、僕はこの曲が『青色』であると思う。

 

 

どうだろう、先ほどの『青色』とこの『青色』の性質の違いが伝わるだろうか。

 

『遠い手を伸ばしたくなるような理想』として、『慈愛、包みこむような存在』として。

 

こう考えると『青色』は確かに寒色だけれど、僕は暖色でもあると思う。だから僕は、雨宮天さんの6thシングル『誓い』にも『青色』を感じる。

 

と言うよりは、その濃淡はあれど、そのふたつの性質において僕は雨宮さんの楽曲はすべて『青色』の叙景詩として感じられる。

 

 

前置きが長くなった。

僕がこの曲を聴いて、いちばん最初に想起したのが聖母マリアの青いマントだった。

 


(Virgin Mary - Giovanni Battista Salvi da Sassoferrato 1640-50)

 

と言いつつ、確か雨宮天さんの1stライブツアー『LAWSON presents 雨宮天ライブツアー2018 “The Only SKY”』に寄せた拙稿懐旧譚でも、「聖母マリアを感じた」とかぬかしていた気が今になってする。

 

訂正する、暖色としての『青色』を感じた時にいつも必ず想起するのは聖母マリアの青いマントだ。

 

ただ、もういちど訂正する。これまでのどの曲よりも僕は、『青色』を感じた。

 


「Song for」を聴いて僕が感じた構造は

 

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自己否定

「そんなもんじゃないでしょ?弱気になってる姿は見せられないんだから」と内面の自分を鼓舞する

(自己否定)

(自己/他者)肯定

 

 

-------------------

 

という感じ。通勤時とりあえず曲を聴いていてその関係性は自分の解釈にしていたけれど、帰宅してじっくり歌詞カードを読んで、まさかあんな演出がなされているとは驚いた。天才か。

 

何を得る上で大切だなと意識が向くのは、タイトル「Song for」ということで、前置詞のforの目的語がないカタチとなっていること。

 

そこに嵌るのは素直に代名詞だなと思う。そして、在ってほしいのは「you」になる。

 

ここでいう三人称は、herだと彼女=you/me、his=youに行き着くから一人称や二人称と同じだなと思う。

 

そして確かに内在されていてほしいこと、在ってほしい光景はその人の自己否定が肯定される自己完結なんだけれど、それだと寂しいし、何より僕は自己完結はないと思う。自己肯定こそ前段階として、他者による承認であったり肯定がつきものだから、「me」でもない。

 

 

「you」が指し示すもの、私にとってのあなた、あなたにとってのあなたである私、つまり、これはやりとりだ。

 

ここで作詞/作曲/編曲を務めた塩野海さんの発言をご紹介する。


いや、本当にヤべー曲を作ってくれましたよ。

 

“自分の作った曲”というと、塩野さんの楽曲は「irodori」「Abyss」「Lilas」とあるけれど、そのどれを見ても、ライブでの僕らのやりとりは⇄であり、それらを見て作ってくれたというヤベー曲。

 

雨宮天さんと僕らの距離を歌にしてくれた曲、それが今作の「Song for」だと僕は思う。

 

僕らの距離が歌になる。

外から見れば、その距離がこういう歌になるのかと思うと、その立っている場所に甘えちゃいけないよなあといつも身を律したくなるのだけれど、本音はとても誇らしく嬉しい。

 

塩野さん、本当にありがとう。

 

 

 

私⇄あなた

 

⇄と書くと“双方向からの”というニュアンスで「with」を連想してしまいそうになるが、ここは片方ということで前置詞「for」について触れようと思う。

 

Are you for or against my idea? 

 

OK.


若い人は知らないと思うが、私が育った大正時代にはブログで唐突に英語の授業がはじまることは非常に流行していた。藩閥政治が衰退したのは一説によれば、これが原因とされている。

 

 

「for」:心を込めて向かう

 

と書いた。

この前置詞はニュアンスを説明するのが難しい部類に入ると思うのだけれど、例えば

 

・Thank you for Playing!

・「歌い続けるよ for you」

 

なんて書けば伝わるだろうか。

 

ある「事象への到達」としては同じ前置詞に「to」もいるが、go to schoolなどどちらかというと物理的なのがtoで、「心が飛んじゃう」系がfor。

 

だからこの双方向の矢印は「for」であり、そこでやりとりされているのは『真心』だ。

 

「for」にそんな意識を置くことで、少しだけ自分に到達してくるモノがより、ほんわりあたたかく感じないだろうか。だから結構好きな前置詞ではある。1番は「on」だけれど。

 

そして、返し、返され、返したい人は人それぞれだ。だから僕は敢えて目的語は伏せられているんだと思う。

 


それらを含めて、もういちどこの曲の構造に戻ってみる。

 

「you」というニュアンス、私からあなた/あなたからあなたにとっての私というニュアンスを含めると、自分はこの曲を受け取った側なので次の通りになる。 

 

 

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①自己否定≪僕≫

②「そんなもんじゃないでしょ?弱気になってる姿は見せられないんだから」と内面の自分を鼓舞する≪僕≫

③(自己否定)≪僕≫

④(自己/他者≪あなた≫からの)肯定

エール

 

 

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まあ、僕も含め、多くの方が僕=自分/あなた=雨宮さんとして聴いたのではないだろうか。

 

①やっぱり壁にぶつかることがある。落ち込む。もう無理じゃー。

 

ライブやイベント、楽曲に携わった作品、ブログ、さまざまな媒体を通して気力をもらうけれど、夜の帳がいつか降りるように、長続きはしない。お祭り騒ぎの神通力はそう長く持たない。すごく情けなく思う。

 

②そんなときに、自分を鼓舞する。「いやそれでもさあ」って。元気になれるような曲を聴いたり。ここで波に乗るときもあるけれど

 

③まあ、もたないんですわ。人生そういうもんだから。

 

 

ここまでは誰しもが日々ある光景だと思う。

そして、ここからよく続く光景として①に戻り①~③の繰り返しだと思うのだ。

 

壁にぶつかる、鼓舞する、乗り越える、壁にぶつかる、鼓舞する・・・。

 

吉田卓郎が人生を語らずと歌っているけれど僕の方が名前の総画数が多いので語る。

人生はその連続だ。

 

でも、僕はそれが続くのはちょっと怖い。

 

 

 

ただ、僕がその中に、僕にとって大事な人に在ってほしいと思う光景こそが④における『他者からの承認/肯定による自己肯定』だ。(そんなこと書いてない)

 

今の自分にとって都合の悪い、あってはいけない感情はたくさんある。

泣きたい気持ち、わめきたい気持ち、がんばりたくない気持ち。

でも、それらを、自分を、殺さないでほしい。

 

 

本当は、利己的なことを言ったりわめいたりしてほしい。

社会がそれを赦さなくても、自分のために社会に対して軽薄である瞬間はあってほしい。

反省すべきことがあっても自分が悪くないことでため息をつかないでほしい。

自分が楽なリズムで孤独になったり、孤独をやめることができてほしい。

本当は歩きたい歩幅で歩いてほしい。

 

 

今は確かにその場にはいられないかもしれないけれど、その感情の存在だけはちゃんと認めてあげてほしい。

 

それらを否定することが、何よりいちばん辛いことだから。

 

「そのままでいいんだよ」という歌詞をソロやユニットで多く歌われているけれど、ことごとくその曲が好きだ。承認欲求高すぎか。

 

でも、僕はその他者による承認に多く救われ、僕は僕を肯定できている。

 

今思えば、今の僕があるのもすべて他者による承認のおかげだ。“自分”が初めから確固として形成されているのではなく、他者との間に無数のやり取りを行うことで自分というモノの境界が形成される。そうした他者による承認のお陰で、今僕は僕を部分的には肯定できている。

 

 

無意味から救い/掬い出され、存在することを迎えられる。その過程は他者承認であり、その結果行き着く先が自己肯定だ。

 

意味は他者からやってくる。その承認があって初めて、自分の存在が存在として認められる。名前やマイナンバー、さまざまなIDとして識別され登録されているそれを超えて、この世界に存在が認められる。

 

 

 

異なるモノ、他なるモノとの異質な出会いの中で何かが起き、そのドラマの内に井戸の中の実存から大海への突破口を見出すことができる。

 

 

 

肯定してくれるような曲を聴いてても、どこかでそれに応えられてない/報いきれてない/返せていない自分が透けて見えて、頑張ろうって表層では、どうにか心底思おうとしても「情けねぇなあ」ってなることはあるものだ。

 

だけどそれを更に上から肯定してくれる、肯定されて「いやでも」と思うたびに、その上からまた「いやでも」と肯定してくれるような曲だと、この曲について形容するとき僕は思う。

 

僕は多分本質的に、『弱さを克服しての強さ』より『弱いままに発揮されていく強さ』の方が好きだ。前者はなかなか自分じゃ難しいなってそれがうまくできないのがコンプレックスなんだけれど、その弱さを肯定してくれるような感じが、この曲にはある。

 

他者との間で起こる無条件の肯定、というか。否定性に裏打ちされていない肯定性。

 

ただ無条件に理由なく、その存在を肯定する。あの畳み掛けるようなラストにはそれがある。

 

この曲にはそういう、聖母マリアの青に包みこまれるような、優しく肯定される感覚を覚える。

それだけで、自分の中で何かが優しく熱を帯びほんのり純度が高くなれる気がする。

 

 

壁にぶつかったとき、確かにいつか自分を鼓舞して越えていかないといけない。

でも、そんなときにどこかにちゃんと自己肯定が、自分に優しくなれる瞬間があってほしい。

 

ときにそうした自己肯定は人を強く押し出し、その人をとんでもない所へ導く推進力となることを僕は知っている。

 

自己否定の反骨心のままに踏み出される「それでも」より、自己肯定の充実感のままに踏み出される「それでも」の方が、より遠くへ行けることを僕は知っている。

 

 


曲の受け取り手としているとそういう関係性になると思うんだけれど、僕は少しそこから違くて、歌い手にまわりたくなる。

 

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①自己否定≪あなた≫

②「そんなもんじゃないでしょ?弱気になってる姿は見せられないんだから」と内面の自分を鼓舞する≪あなた≫

③(自己否定)≪あなた≫

④(自己/他者≪僕≫からの)肯定

エール

 

 

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僕が好きな曲の傾向として、歌詞を別の誰かにかけたくなるような曲、というのがある。言わば共感だ。

 

例えば、あなたはラブソングを聴いたときに自分が想う大切な彼女に歌いきかせるようにその言葉を届けたいと思ったことはないだろうか。

自分が感激した応援歌を、今頑張っている自分が応援している人に届けたくなったことはないだろうか。

 

それだ。

 

僕は自分が肯定されている一方で、曲のあたまからこの曲の歌詞を、目の前で頑張り続ける雨宮さんに届けたいなと思った。

 

 

そういう意味で、⇄で在りたい。

心を込めて何かを贈りたい。

 

Present for you 的な。

心を込めて、相手に向かいあっていたい。

 

 

本当は、利己的なことを言ったりわめいたりしてほしい。

社会がそれを赦さなくても自分のために社会に対して冷酷である瞬間はあってほしい。

自分が楽なリズムで孤独になったり、孤独をやめることができてほしい。

本当は歩きたい歩幅で歩いてほしい。

 

今の自分にとって都合の悪い、あってはいけない感情はたくさんある。

泣きたい気持ち、わめきたい気持ち。

でも、それらを、自分を、殺さないでほしい。

 

今は確かにその場にはいれないかもしれないけれど、その感情の存在だけはちゃんと認めてあげてほしい。

 

きれいなものも

きたないものも

笑っていますように

 

あなたがそれを肯定することができないのなら、ずっと大声で、何度も何度も死ぬまで書き続けてやって、それを承認してやるのだ。

 

あなたが、そうしてくれているように。

 

 

『愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。』

 

(『好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎/講談社文庫))

 

 

 

弱いままに発揮されていく強さ。

 

弱いままだ。

 

また、ぶつかるのだろう。

 

それでも、だ。

 

僕らは弱い。

 

弱いままでいい。

 

あなたがそうしてくれたように、僕もそれを肯定したい。

 

それを受け止め、努力や工夫で変えていくことができる人は強い。 

 

そうして、あなたがそれを肯定したとき、

 

 

それがスプリングボードとなり、

 

あなたはあの高い壁を力強く超えていくのだろう。

 

 

頑張ってるひとが孤独じゃあないといいな。


僕らはどんなに自分が嫌になっても自分をやめることはできない。

 

知らないうちに自ら“自分”として作り上げるシステム、“姿勢”、“思想”、“信条”、“思い込み”、“信仰”、“イデオロギー”、“慣習”、“アイデンティティ”、“常識”。そうしたあらゆる固定化、無数の“自分”を途中でやめることはできない。それはつまり死と同義だ。

 

それでも、雨宮天さんのお陰でいったん「中間停止」のようにそれらから精神的に解放されることがよくある。

 

それから再組織化していく。

 

別の組成法に気づき、自分自身をよりよく世界のうちに統合、ブリコラージュしていくこと。

 

 

思えば、雨宮さんに出会えたお陰で、雨宮さんからもらう多くの価値ある価値観で気づきの方向性が増え、僕はそれが以前より潤滑にできている気がする。

 

 

今が、本当に夢のような時間だと思う。

 

他人の承認ですら興奮して、それを自分の承認と同一化し、一喜一憂する。自分を見失わなければ、悪いことじゃないと思う。

 

過去に何があったかわからないままに現在ですれ違う。

 

そんな出会いにこんなことを思えるなんて、僕は幸せ以外なんなのだろうか。

 

オーストラリアの先住民アボリジニには『dreamtime』という考え方がある。

 

彼らは今から数万年前にアジア・アフリカからオーストラリア北部に至り、しだいに南下し生活のため土地を切り開いていった。

 

彼らの歴史は旅そのものであった。

 

アボリジニにとって『dream』とは「生活すること」であり、かつ、『旅をすること』同義でもあるそうだ。

 

日々の生活が惰性的なものであるのではなく、日々の生活が新鮮な刺激や出会いに満ち溢れた旅であり続けること。彼らにとっては見慣れたようで見慣れぬ森を一歩一歩手探りで旅していくことこそが、『dream』なのだ。

 

 

出来事は自分が自分の現実の中でその質に向かって自分の実存を問いかけることにしかやってこない。

 

 

単に夢を見るのではなく、そうしてその旅のプロセスの中で自分が確かに生きていた痕跡を残し続ける行為こそが『dreaming』なのだと自戒して、寝たい。

 

眠いので目を卵で閉じた。三つ葉を乗せたら完成である。

 

いい夢を見よう。

 

In dream, begin the responsibilities.