愛って、何だ


『愛』って何だーーーーー????

 

60年くらい考えている。

「愛」って何だろう。

 

 

「愛って、何?」って、綾波タイプっぽいね。

 

願望を言えば、「アンタ馬鹿?」とスマートに自分の価値観を言えるアスカみたいになりたかったけれど、残念ながらそういう人間ではないので、ぽつぽつと歩いてみたいと思う。

 

 

なあ、人類。

『愛』って何だ。

 

自分の中で大切なモノに対する眼差しの正体について考えてみたとき、それは「好き」なんていう均一的で無責任なものではなく、「愛」だと思った。

 

でも、すぐに脳内で飼育している肥えた批評家たちは「愛も均一的じゃないか!」「お前の言う愛って何だ!」と声を挙げていて、いや、それもそうだよなと思った。

 

「愛」って何だろう。

 

 

「愛」なんて言葉が指すものを知らないくせに「愛」なんて言葉をしばし使い、理由やいいわけに「愛」という言葉を持ち出せば、何か決定的なこと、平和的なことを言ったような気分になっているだけではないだろうか。

 

 

自分がたまたま誰か一人を特別に好きになって、それがずっと続いて、やがて相手を自分にとっての特別な存在だと思うようになり、その状態が「人を愛する」ことだろうなと、なんとなく思い込む。

 

そして、まったく誰をも愛していなかったときよりも、誰か愛する人がいるときのほうが自分の喜びが多くなることを覚え、「愛することはすばらしい」と実感する。

 

そういうこと?

 

今のワシ、そこ?

 

いやだなあ、それ。

 

 

 

んー、「愛」するって、何だーーーーー!!!

 

 

よく「これから掘り下げて何を話していくか」を書き忘れるので、ちゃんと書いておく。

 

『ぼくにとって、「愛」するってなんだろう』っていうことを考えていくよ。

その過程で、『愛』ってなんだ...って考えてみるよ。


「愛」することって、何だろう。

それは、僕に何を施してくれたのだろう。

 

 

話の流れ上、必要なことなので少し自分自身の過去を振り返ってみたいと思う。

 

少し痛い過去なんだけれど、別に自分の「ネガティブ過去自慢」をしたいわけではなく、誰にだってあることだと思うので、そこだけは予防線を張っておきたい。

 

 

以下は、コミックマーケット96にて『ノンフィクションコンパス』(サークル:あおしろ荘 様)に寄稿した拙稿『井戸底プラネタリウム』の冒頭部分。


 感情を捨てなくては、と思っていた。

 

 小学生の頃からうまく言葉で伝えることが苦手だった。相手に自分が意図したものとは違う受け取り方をされてうまく説明できない自分が、傷つけられても言い返せない自分が、相手が望む返事ができない自分が嫌いだった。

 

 ろくに、人を慰めることのできない幼少期だった。アニメや漫画で登場人物が誰かを慰めるシーンに憧れて、いつかはそんな大人に自分もなるんだと信じていた。どんな言葉にも救われなかった人物が、思いやりのこもった一言に救われる。重い槍みたいな言葉がズシンと響く。そんな奇跡が起きるたび、誰かを救わなければと思ったのだ。誰かを救わなければ誰にも信用されることはない、愛されることはない。だから、救わなければいけない。でも、いざ自分となると、相手が求める言葉を渡すことができない。誤解されたりもする。自分の言葉がなんのためにあるのかわからなくて、考えを話すのが怖くなっていった。

 

 中学生になってもなんだか心の中では相変わらずうまくやれなくて、本当は誰かに話しかけられることが怖かった。それでもある程度は朗らかに「打ち解ける」必要があの頃だって今だってあって、本音を喋ろうとするといつもごちゃごちゃするから、作業的に相手を肯定しておけば間違いはないと謙譲的に話すようになった。そういう人にみんな「きみはやさしいんだね」と言う。そうやって本来の『優しさ』を見失ったまま、将来や進路についての話は、ずっと自分は人と永遠にそんな風に関わりあうべきなのですと言われているようだった。

 

 傍観者になりたかった。

 

 次第にそんな自分への嫌気は諦観へと変わっていく。傷つくのが嫌なら何も感じなければいいのだと。嫌なことがあったり誤解されて非を向けられても「突き詰めると自分が悪い」と諦めるようになった。本当は構ってほしかったのだと思う。じゃあ構ってもらえる人はどうやったらそうなれたのだろう、好きになってもらえて、なのだろうけれどどうやったら好きになってもらえたのだろう。何か頑張りが足りなかったのかな、でもそれはそういう環境にした自分が悪くて、突き詰めれば自分が悪くて。そんな風に勝手に諦めるようになった。


ずっと、何かが、何かが欠落しているような気がしていた。

 

その頃の僕を掬ってくれた存在として、上記の拙稿では漫画『タビと道づれ』(作:たなかのか)を挙げているのだけれど、もう1つ、業を背負ってくれた出会いがあった。

 

それが、小学生の頃にラジオで出会ったこの曲だった。


美しいハモリが凍てついた心に鼓動を呼び起こし、澄んだピアノのイントロが氷片をあたたかに押し流してくれる。

 

春みたいな曲だと思う。

 

てきとうなこといった。

 

 

でも、多分あの頃もそんなことを思っていたんじゃないかな。

綺麗な曲だと思った。

 

綺麗なんだけれど、どこかこの曲には「静かな叫び」というものが感じられて、本能的に自分の「欠落」との共鳴を感じていた。

 

初めて聴いたその日に電子辞書片手に和訳を試みた記憶がある。

 

以下、拙訳。


Can anybody find me somebody to love?

<誰か、ぼくに、愛を。>

 

Each morning I get up I die a little

<毎朝起きては少しずつ死に近づいている気分さ>

 

Can barely stand on my feet

<立ち上がるのがやっとなんだ>

 

(Take a look at yourself)

Take a look in the mirror and cry

<(自分の目で確かめてみて) 鏡で自分の姿を見て、泣き叫ぶのさ>

 

Lord what you're doing to me

<主よ、あなたはいったいぼくに何を施してくれたのですか>

 

I have spent all my years in believing 

<あなたを信じてずっと生きてきた>

 

But I just can't get no relief, Lord!

<なのに、ぼくは苦しみから逃れられない、なぜです、主よ!>

 

Somebody, Somebody

<誰か、なあ、誰か>

 

Can anybody find me somebody to love?

<誰かぼくに教えてくれるのだろうか、愛すべき人を>

 

 

I work (he works hard) hard  everyday of my life

<人生、毎日忙しく働いて(彼は一生懸命に働いている>

 

I work till I ache my bones

<骨をずきずきと痛めるまで働いて>

 

At the end (at the end of the day) 

I take home my hard earned pay all my own

<最後まで働いて(1日が終わるまで働いて)、稼いだ給料を手に家へ帰り>

 

I get down on my knees

And I start to pray

<ぼくは膝を折り、祈りを捧げるんだ>

 

Till the tears run down from my eyes

<ぼくの瞳から涙が流れ落ちるまで>

 

Lord - somebody - somebody

<主よ...誰か...ああ、誰か>

 

Can anybody find me somebody to love?

<誰かぼくに愛を教えてくれる人を>

 

(He works hard)

Everyday I try and I try and I try

<(彼は懸命に生きている) 毎日ぼくは懸命に、懸命に懸命に過ごしているのに>

 

But everybody wants to put me down

<なのに、みんなはぼくをけなしたがるんだ>

 

They say I'm goin' crazy

They say I got a lot of water in my brain

<「あいつは狂っている」と、「頭の中は水で満たされているんじゃないか」って>

 

I got no common sense

<ぼくは”みんな"とは違うから>

 

I got nobody left to believe in

<もう、誰も信じることができない>

 

Yeah, yeah, yeah, yeah

 

Oh Lord

<ああ、主よ>

 

Somebody - somebody

<誰か、ああ、誰か>

 

Can anybody find me somebody to love?

<教えてくれないか、この苦しみから逃れるために愛すべき人を>

 

 

Got no feel, I got no rhythm

<もう何も感じないし何も聞こえない>

 

I just keep losing my beat

(you just keep losing and losing)

<自分のこともよく分からなくなってる>

 

I'm OK, I'm alright

(he's alright, he's alright)

<でもぼくは大丈夫、大丈夫だよ>

 

I ain't gonna face no defeat

(yeah yeah)

<どんな事でも乗り越えてやるさ>

 

I just gotta get out of this prison cell

<いつかこんな苦しみから抜け出して>

 

One day (someday) I'm gonna be free, Lord!

<絶対に自由になってやるからな、主よ!>

 

Find me somebody to love

Find me somebody to love

 

Find me somebody to love

Find me somebody to love

 

Find me somebody to love

Find me somebody to love

 

Find me somebody to love

Find me somebody to love love love

 

 

Find me somebody to love

Find me somebody to love

 

Somebody somebody somebody somebody

 

Somebody find me

 

Somebody find me somebody to love

 

 

Can anybody find me somebody to love?


『愛が、誰かを愛することが人生を変えてくれる』と信じている人の曲、かな。

 

この曲は邦題として『愛にすべてを』と名付けられているのだけれど、厳格な原題派おじさんである僕にしても、その邦題は的確だと思う。

 

(ちなみに、この曲は原曲だと「静かな叫び」みたいな曲調なんだけれど、ライブになるとフレディーのパフォーマンスもあり「激情からの叫び」みたいな曲調にガラッと変貌する。「愛への飢え」にはその静動という二面性があると思うので、よかったら、上のPV版と次のライブ版を聴き比べてみてほしい。僕が思うに、QUEENがワールドワイドにオールタイムにこれだけ支持されているのは、そういった所だと思うのだけれど。)

 

 

『愛』は、『愛すること』は、人生のすべてたり得るのだろうか。


「愛は、愛している人にだけある。」(『愛の断層・日々の断層』/ジンメル)

 

「愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存する。」(『二コマコス倫理学(下)』/アリストテレス)

 

「愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。」(『愛するということ 新訳版/エーリッヒ・フロム)

 

「愛は常に自発性によって特徴づけられる。」(『人間性の価値を求めて マックス・シェーラーの倫理思想』/アルフォンス・デーケン) 

 

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僕なりに周波数が合う先人たちの言葉を借りてみたけれど、やはり「愛」っていうのは「もらうモノ」ではなく、「与えるモノ」のように感じる。

 

「愛を向けられている」時と「愛している」時、どちらが幸せだと感じるだろうか。

 

これを書いている時点では未だ肌触り程度の感覚でしかないのだけれど、僕の実感としては後者であるし、論旨としては後者を選択していく。

 

この「人に愛を与える」というところこそ、キリスト教が教えている『汝の隣人を愛せよ』であり、そしてキリスト教ではそれを「見返りなく施さなければならない」とも教えている。

 

あ、僕は別に敬虔な教徒ではなくて、自分の信仰からここに至っている訳ではなく、自分の哲学的にここまで至っているので宗教的な偏りはないです。

 

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愛は寛容なもの、慈悲深いものは愛。

愛は、妬まず、高ぶらず、誇らない。

見苦しい振る舞いをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人の悪事を数え立てない。

不正を喜ばないが、人と共に真理を喜ぶ。

すべてをこらえ、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ。

(新約聖書「コリント人への第一の手紙」フランシスコ会聖書研究所訳)

 

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この手紙では、「愛」は、他人への様々な態度として表現されている。

他人へ向けた自分の態度として、そこに「愛」が含まれているかどうかが書かれている。

 

 

また、『新約聖書』に描写されているイエスは、

 

「ほどこしをするときは、右手のすることを左手に知らせてはならない」

 

とも教えている。

これは「愛からすることは人に隠れて行え」という意味であり、言い換えば「その行為以外に他の意図や目的をいっさい持たないようにせよ」ということを示している。

 

そうしないと、施しが純粋な「愛」の行為ではなくなってしまうから。

これについて補足をすると、次の通り。

 

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注意すべきは施しをする者の優越感です。それが受ける側の劣等感を引き出します。主イエスはここで、する側の陥りやすい点をするどく指摘されます。人にほめられようと会堂や街角でラッパを吹き鳴らしてはならない。人に見せようとして行う愚かさを注意されるのです。施しは人目につかないよう、相手に知られないようにと言われます。人にああしてあげた、こうしてあげた、は右の手のしたことを左の手に知らせることなのです。「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる」のだから私たちはすべきことをすればいいのです。「むくいをのぞまで ひとにあたえよ」が大事なのです。

(日本基督教団 札幌教会 2016年5月29日主日礼拝説教より)

 

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さて。

 

『「愛」は「好き」をたくさん重ねて頂点に達した状態』という風にも言われたりするけれど、コトコトと考えを煮詰めていく内に、どうもそうでもないような気がしている。

 

好きだという気持ちが濃縮されていくと、あるいは蒸留されていくと、やがて「愛」になる。

好意と愛は地続きにあるもの。

 

本当にそうなのだろうか。


好意、言ってしまえば、「好き」「嫌い」。

 

それらは、「感情」に分別されるもの。

感情は強く現れたり急に遠ざかったりする。

 

人にとって「好き嫌い」などというのは、揺れる感情と、日々更新されていく価値観、それに心身の健康状態がミックスされたものでしかないから、それは『いくらでも変化してやまないもの』であると定義できると思う。

 

昨日まで割と好きな部類だった友達もふとしたことで「嫌い」になるし、嫌いだったものがふとある日突然光に見えて「好き」になることだってある。

 

僕は中1まで数学好きだったけれど、テストでいい点とれなくなったので嫌いになりました。

 

 

じゃあ、『愛』もまた、そういう不安定さを持った感情と言えるだろうか。

 

このように質問すれば、きっと多くの人は、特に自分が対象に対して抱いている慕情が「愛」だと定義している人はキッパリと否定して、「愛」はもっと別の高いレベルのものだと反論するんだと思う。

 

 

愛は『感情』じゃないし、直接的には、『「好き」をたくさん重ねて頂点に達した状態』でもない。


んー、前の節を書いてから1ヶ月くらい考えこんでしまった。孫娘ももう小学生になった。

 

んー。

 

 

いつまで経っても、僕たちは「愛」を的確な言葉で説明することができない。

 

にもかかわらず、「愛」とは相手を深く理解(しようと)していることだという「一点の強い確信」のようなものを、なぜか僕らは持っている。

 

これは、なんだ...

 

僕が、それでも確かに感じている、この「愛」はなんなのだろうか。


...聴こえているだろうか。

 

嘘だと思うだろうが、あれから人類は滅亡の危機を迎えた。

孫娘を止めれなかった私に責任がある。しかし、私は孫娘への愛を貫いてしまった。許してくれ。

 

なので、こうしてテープレコーダーに遺す。

 

んー。

 

 

愛は『深さ』なのか。

 

深ければ深いほど、『良い』のか。

 

そもそも、他人と競い合うことができるのか。

 

 

関わりが「浅い」「深い」は、それこそ「劣等感」や「優越感」といった『感情』でしかなく、それは『愛』ではないように見える。

 

対象への関わりが深くなければ「愛」の範囲の端っこにすら入らないとみなされる。

そればかりか、対象についての知識が深くないと、それらを「愛」していると言うのは烏滸がましいとみなされることもある。

 

でもそれは、対象についての愛の深さ(知識の量)は自分の関わり具合の深さとつながっているからでもあるように思う。

 

そして、その「自分の関わり具合の深さ」をボーリングで掘り進めた各々の地層にあるものこそ、『愛』を構成する要素のようにも思えるのです。

 

 

だから、愛は『深さ』ではなく、そこに積み重ねられた地層であるということ。

そして、それらは表層にいる他人には決して見えない部分であるということ。

 

うん、たぶん、ここまで文字数をかけてすごく当たり前のことを言っているように思うのだけれどね。

 

 

 

ただ、「知識」と言っても、たんなるデータ収集によって効率的に得られる種類の知識などではなくて。

自分からの関わりと相手とのユニークな関係、その人間的な体験の積み重ねによってのみようやく得られるような理解から生まれた知識です。

 

だから、「愛」なんていうのは、他人に客観的に説明することはほぼ不可能なものなんだと思う。

 

 

とりわけ、自らの行為であれば、すなわち自分に還元される美味しい蜜の割合が高いほどに、「愛」の純度は高いということになる。

 

これはもちろん他人からは見分けがつかないし、客観的に測定できるものではない。当事者である自分しか知らないコトである。


んー。

 

「愛は、愛している人だけにある」(ジンメル)

 

「愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存する」(アリストテレス)

 

と先人たちが言っているように、やっぱり、愛するという現実の行為そのものが「愛」なのであり、愛は、観念ではない気がする。


そうだなあ。

 

「愛」の純度を降順に並べてみる。

(例えば、「気になる人⇒恋人⇒夫婦⇒死別」で考えるとわかりやすいかも)

 

・関心:興味を示す

・観察:注視する

・認識:認める

・受容:受け入れる

・肯定:肯定する

・所有:抱く

・一体化:自分自身と同じように扱う

・永遠:相手が不在であっても相手の存在を喜ぶ


「所有」は愛なのか。

     

確かに、例えば「彼女が欲しい」というのは、一見「己の欲望」に過ぎない。

 

「彼女」を欲しがるのは、その彼女「で」自分が何をしたいかということであり、自分が何かをするのが主目的であり、「彼女はそのための道具」にしかなり得ない。

 

少し暴論かもしれないけれど、これを目的語を入れ替えて、例えば「スプーンがほしい」と考えてみる。

そうなると、「スプーン」という道具で自分がアイスを食べたい、ということになる。

 

その「で」の対象は、単に(自分にとって)役割を持った人間でしかなく、つまり道具化された人間が欲しいということ。

 

 

そこに在るのは、自分が何かを利用したいという身勝手な欲望ではあるんだけれど、でも、その裏地のところで、これも暴力的でこそあれ「愛」であると思う。

     

 

未だに人類は「お前が欲しい」だの「あなたのモノになりたい」だの言っているし、持っているモノには愛着は湧くし他人のモノには愛着が湧かない。

 

やっぱりいいモノが欲しいから、「見かけの醜悪」、「属性の優劣」、「収入の多さ」、「肩書きや職業、スキル」が基準の役目を果たしている。

 

所有しているからこそ、他よりも大切に扱う。

誰かにとって、必要な役割を持った者になれる。

 

うん、所有だって、立派な愛だと思う。

 

 

入口として、そこからより深い「愛」に昇華していくのだから。

 

だから、今付き合っている人がいる知人たちや、結婚されている方々っていうのは美しいなあ、とも思われていて。

『愛を誓う』っていうことは、互いに者として尊重し合うっていうことだからね。

 

 

ただ、「愛」を用いた時に「愛でる」という字があるけれど、何か特定の者をモノとして愛でるように、安易にそういうコトを言っている人は僕は波長が合わないなあと思う。

 

者を所有する場合は、先に述べた通り相手の承認が必要だからね。

 

(唐突な威嚇)

 

まあ、多様性、多様性。


少し話が逸れた。

 

「愛」は見えないものであり、

 

 

  • とりわけ、自らの行為であれば、すなわち自分に還元される美味しい蜜の割合が高いほどに、「愛」の純度は高い
  • 他人からは見分けがつかないし、客観的に測定できるものではなく、当事者である自分しか知らないコト

という風に考え出してきてみた。

 

「自分の関わり具合の深さ」をボーリングで掘り進めた各々の地層にあるものこそ、『愛』を構成する要素のようにも思える、とお話をしてみたのだけれど、つまりどういうことじゃろうか。

 

 

結局、自分の「愛」を語れるファクターは『自分が経験したコト』であるということじゃなかろうか。


「経験」と言っても、誰かに「あそこのラーメン食べたことある?」と尋ねるような「経験」ではなくて。

 

 

経験というものは、世界と自分の間で起きることではない。経験とは、人間の内側で起きることである。

(マルティン・ブーバー「我と汝・対話」)

 

と、語られているような経験。

 

自分が、何を受け取ったか。

自分が、何を感じ取ったのか。

自分が、『意味』として何を見出したのか。

 

その何かに反応する自分、その反応によって感情を動かしたり変貌したりする自分、それらが「経験」だと僕は思う。

 

自分の内で起きる出来事。

 

 

当然、ここまで歩んできた道や価値観はユニークで交換不可能なオリジナルな訳で、対象の者/モノに込める想いだって人それぞれで。

 

そこに、「映画」や「アニメ」、「本」であったり「音楽」「人の発露」といった何か感動的な体験がファクターが掛合わさって、その人の内だけで変容が起こり、『想い』や『価値観』がブリコラージュ(編み直し)されていく。

 

これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。(『注文の多い料理店』序 宮沢賢治) 

 

 

 

つまり、

  • とりわけ、自らの行為であれば、すなわち自分に還元される美味しい蜜の割合が高いほどに、「愛」の純度は高い

⇒ 自分の中で出来事が大きな意味を持っていくほど「愛」は純化するし

 

  • 他人からは見分けがつかないし、客観的に測定できるものではなく、当事者である自分しか知らないコト

⇒ 他人に『自分だけに起きた出来事』を説明しても伝わらない

 

それぞれの人の具体的な真の経験からのみ、それぞれの人のその都度のレベルの「愛」の能力が生み出されてくるのであって、それらをひっくるめて等級づけたりできるはずもない。

 

 

だから、他人がそういう風に「愛」を語っているときは受容の心を持って見守っていたいし、いや、正直他人だから「どうでもいいけど、よかったね!うんうん、愛だね!」くらいの気持ちでしかないんだけれど。

 

わからないからこそ。

 


んー。

 

最近、「環世界」っていう言葉をおぼえた。

 

5歳なので、おぼえた言葉は積極的に使っていく。

言い換えてみれば「生態区」という意味を持つ言葉だそうだ。

 

生物によって外界を知覚する仕方と知覚の範囲がまった異なっている。

そのため、その生物が知覚する限りのものだけが、その生物にとっての世界の全体になる、ということ。

 

この「環世界」という考えは、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル博士が唱えたもので、氏は一例として、マダニの環世界を挙げている。

 

マダニには視覚や聴覚がありません。かわりに嗅覚、触覚、そして温度を感じる能力を備えています。マダニは木の上に棲んでいて、自分の下を通る哺乳類の体温に気づき、彼らが発する微量な酪酸の匂いをかぎとることで動物の位置を感知して、彼らの上に落下するのです。あとは触覚によって毛が少ない部分へと進み、吸血行為に及ぶのです。

 

 

うぅ、想像しただけでちょっとだめだ。

 

 

氏の説明によると、マダニは木に棲んでいることを意識しないし、時間の流れも感じない。マダニにとって世界とは、匂いと温度と触った感覚だけで作られるものなのです。

 

これをさらに言い換えてみれば、『自分にとって意味があるかないか』『ないものは知覚しない、もしくはしていない』という言い方もできる。

 

人間の言う興味って、そういうことじゃないすか。

 

もう少し人間的に考えてみると、物事をたくさん知っている人と知らない人の「環世界」は違うし、世界にいろんな意味を見出している人とそうでない人も違うし、経験の多さや知識の範囲でも異なってきますよね。

 

 

多様性を認めることって難しいけれど(自分が可愛いからさ)、その人には独自の環世界があるって思うと、なんか優しくなれるなあって、思った。

 

(ここ最近いろいろあったから一生懸命落とし所考えた)

 

 

そうやって、「環世界」を拡げていくと、世界(/環世界)の見え方、意味がもっと広く深くなっていく。

 

そうやって世界を拡げていくと、いろんなことを世界に見出すことができて、楽しくなってくる。

 

それはつまり、自分の世界を自分で生きるということ。


んー。

 

 

「愛」することは、”自分だけの”環世界の中で経験を積み重ねていく中で、他の誰とも似ていないその自分をしっかりと生きていくことだと思うんですよね。

 

 

それが、大人になっていろいろ自分なりに、いろんな出会いと経験の中で導き出した答えかな。

 

・関心:興味を示す

・観察:注視する

・認識:認める

・受容:受け入れる

・肯定:肯定する

・所有:抱く

・一体化:自分自身と同じように扱う

・永遠:相手が不在であっても相手の存在を喜ぶ

 

そうだなあ。

 

だらだら駄文を重ねてしまうので先に行き着いた結論だけを話しておくとだね。

 

僕は僕でもらったものを糧にがんばるので、愛している人たちには自分の環世界の中であたたかく存在していてほしい

 

っていうことかな。

 

 

たびたび僕が引用する言葉に、舞城王太郎の『好き好き大好き超愛してる。』冒頭の一文があるのだけれど、彼らに思う気持ちはそういうところで。

 

"愛は祈りだ。僕は祈る。僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。"

 

 

そういう、相手方の「環世界」は、僕には手が届かない領域なんだよなあ。

 

"「人の手が届かない部分があるんだよ 」と佐々井がもう一度言った 。

「天使にまかせておいて 、人は結果を見るしかない部分 。人は星の配置を変えることはできないだろう 。おもしろい形の星座を作るわけにはいかないんだ 。だから 、ぼくたちは安心して並んだ星を見るのさ 」"

(池澤夏樹「スティル・ライフ」中央公論社 1991年 )

 

"この世界がきみのために存在すると思ってはいけない 。世界はきみを入れる容器ではない 。

世界ときみは 、二本の木が並んで立つように 、どちらも寄りかかることなく 、それぞれまっすぐに立っている 。

きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている 。それを喜んでいる 。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない 。"

(同上)

 

 

これもよく引用するね。

 

愛していたい、というより、あなたに在ってほしいのはそういう世界で、なんかこう、そういう風に、あなたの世界と並んで立てたらいいなあって思う。あなたのほうはあまりぼくのことを考えていないかもしれないけれど。

 

 

(とうぶん、けっこんできそうにないね)

 

 

んー、だからもう、僕の経験からするに、あの人への、最近のこの心配のなさは結構「永遠」に近いフェーズなのかもしれない。

 

 

フレディーはもう、「永遠」のスターです。

 

存在の祭り。

 

 

あなたたちがくれた経験が、優しい光として暗い道を照らすみたいにどんな時も心の中で灯っていてくれたから、僕は迷いながらも、なんとかここに辿りつけたのだと思う。

 

何が経験として残り、今の僕を作っているのかというと、それは僕が心の動きに誠実に対応したもの、全身で取り組んだものの数々だ。

 

 

自分の「愛する」って何だろうって所から出発したけれど、それは、『経験からより良く自分を世界の内にブリコラージュ(織り直し)して、自分自身の言葉を革めていくこと』なのかもしれない。

 

 

吉田拓郎もトウジも、今はまだ人生を語らずと言っていたので、結論づけはしないけれど。

 

そうやって、「愛」することで、僕は自分を信頼できるようになったように思う。

 

いつまでもこういうこと言っておられん年齢だし、そろそろ「何かを成せ」というところなんだけれど、そうやって「愛」することができるようになって、世界が拡がったし多くの意味を見出すことができるようになったと思う。

 

 

うん、恥ずかしげなく、今なら自信を持って言えるよ。

 

僕はあなたたちを愛しています。

 

 

僕は僕で「愛」していくから、あなたはあなたで、お元気で。


『Somebody To Love』は、『誰かを愛することが人生を変えてくれる』と信じている人の曲だった。

 

『愛』は、『愛すること』は、人生のすべてたり得るのだろうか、Lord.

 

あの頃と違って、いま僕はこの曲を聴くと違った心模様になる。

 

 

ようやく、この曲が自分のテーマソングではなくなったように思う。

 

Dear Freddie,

 

ようやく、返事できたよ。

 

Love,