「すべての芸術は音楽の状態にあこがれる」
W. Paterの『ルネサンス』からの引用。
もっとも、その起源はショーペンハウアーとされ、彼は『意思の表象としての世界』の中でこう語っている。
「(音楽は)現象によるのでなしにそれ自体に従って、いわば現象の最も内奥のたましいを、身体なしに表現する」
他の芸術においては、たとえば表現に言語を用いる詩の場合、どうしても辞書的に規定された概念の制約や束縛を僕らは免れることはできない。
「言語」というものを媒介にして世界を了解するという言語的拘束、それがこの世界の根本図式だ。
絵や文章はどうしても視覚情報オンリーな気がして、音楽はズルい。
音楽は皮膚全体で感じて体を巡っている気がして、それが血液だっていうならそうなのだろう。
ズルい、音楽に憧れるなという気持ちが時々ある。
いくら言葉を書いても相手には届かなくて、それが音楽になった途端に届くことはどうしたってある。
この限りにおいて、やはり音楽の方が、言語を使う文学より純度の高い芸術であると言わざるをえないのだ。
でも、それは何も詩や芸術に限った話ではないと思う。
日常の中で思うことを曲の中で歌われると「ズルい!」と思うことがある。
言葉を使っているとすごく音楽に憧れる。
感情を伝えたいときすごく音楽に憧れる。
言葉は音楽に憧れる。
言葉は音楽を超えられない。
僕が使えるのが歌だったらなと、思う。
僕はフレディに生を注ぎ込まれ、ブライアンやロジャーやジョンに豊かさを与えられ、時にフレディにピアノで寄り添ってもらった言葉たちこそが、最も幸せな言葉だと、ずっと思っている。
だからこそ、僕は小さい頃から、彼らの曲の中に自分の認識できていないインサイトな感情を探し出すのが好きだったし、多くの刺激を受け感情を定義する言葉を与えられた。
まだ幼かった頃、幼さの中で何かに押しつぶされそうだったをの頃。
彼らの曲の中に何かを見出したとき、僕はすごく肯定されたのだ。
あなたにとってそれが誰かのように、僕にとってはそれがQUEENだ。
この映画ではじめてQUEENを知る人が多いだろう。
映画を観て、CDを聴いたりライヴ動画を観たりして、「良い曲があるな」と思ってもらえれば、一人のファンとして嬉しい。
本作は2019年のアカデミー賞において、作品賞こそノミネートされつつ逃したものの、
・主演男優賞 ラミ・マレック
(フレディ・マーキュリー役)
・編集賞
・録音賞
・音響編集賞
を獲得した。
フレディ役のラミ・マレックは振付師と『再現』を目指すのではなく、モーショントレーナーとフレディの癖や筋肉の使い方を徹底的に研究することで、演じるというよりは彼を降霊させたかのようなパフォーマンスを披露した。
フレディに限らず他のバンドメンバーも恐ろしいくらい動きがリスペクトされていて、それが「QUEENのライヴ」をそこに完成させている。
すなわち、ラミの受賞は彼らバンドメンバー全員の「演技」への評価であり称賛でもある。
そして、音響面でもこの作品はオスカーを獲得する高い評価を得た。ラミの主演男優賞以上に僕はこの3つの賞獲得は自信があった。
それはライヴ映像作品やライヴアルバムにおけるQUEENの音響面でのワークスが当時から素晴らしく、技術が進歩した今さらにそれに磨きがかかっている。
文章の方はあなたには全くどうでもいいことを語るので、さっさとスクロールしてぜひライヴ動画を観てみて、それを体感して欲しい。
「これは本当にライヴ音源か?」と思うこと間違いなしであり、その迫力に圧倒され魅了されるだろう。
そしてせっかく映画館という素晴らしい音響の下でQUEENの音楽に触れることができる今、ぜひその異次元なパフォーマンスに触れてみてほしい。
なんたってアカデミー賞を受賞した音響製作だ、感動は間違いない。アカデミー賞が保証する。
そして、「グリーンブック」がそれを上回る作品のクオリティーだったのは間違いないが、役者陣の演技と製作陣の貪欲なまでのライヴ再現への音響や演技へのこだわりが、作品賞ノミネートという高い評価、そしてここまでのヒットに結びついているのではないだろうか。
つまりとても楽しめるので、映画をやっているうちにちゃんと映画館でライヴを体感して欲しい。
フレディは1991年に亡くなった。
つまり、QUEENのライヴをあなたが体感できる機会はこれを逃すとない、ということを僕はあなたに届けたい。
フレディは天才、カリスマだ。
僕はそう言うし、僕はそう思わない。
尖った才能があっても、それだけでは人には届かない。届けることができるのは、そこに僅かでも「自分と似ている」という『凡庸さ』があれば、その凡庸さが共感を呼ぶし才能が記憶に残る。
これについては詩人の最果タヒさんが「凡庸さが受け手のドアを共感によって開けて才能が受けての心の中に置き手紙を置き残すイメージ」と語っているけれど、まさにその通りだと思う。
彼は天才なまでに『凡庸さ』があった。
あれだけカリスマ性がありながら、とても身近な存在だった。
これほどまで愛されるのは共感されているから。
万人が振り向くのは『才能』ではなく、『共感』だ。
特に、フレディの書く詞は実に詩的でそこから1本の物語が生まれそうな気さへする。
同時にそこには大きな痛みも感じられる。それはとても、僕たちが感じる痛みと似ている。
その意味で、彼はとてつもなく、「僕ら」だった。
そんな「ハッピー」だとか「悲しい」だとか、「孤独」だとか誰しもが持つ凡庸的な感情を、
「そんな言葉では言い表せないんだよ!」と無声慟哭したくなるような感情を、フレディは声で、いやQUEENは全身を流れるような音楽で肯定してくれた。
ステージ上の彼はどこか身近で、そんなとき彼は決まって「なりたいと思う自分」の姿をしている。
「詞はリスナーのもの」というセリフが劇中にあった。
彼らの音楽は「体験する音楽」であり「これは自分のものだ」とはじめてその言葉の存在を認識できるものだと思う。
エリック・クラプトンがこう寄せている。
「クイーンには、僕ができたらいいのにと夢見るようなことをできる男がいる。」
誰しもにおいてフレディはそうであり、その点において彼は真性のパーフォーマだった。
このブログを最初に書いた後、NHKによるブライアン・メイ(Gt.)とロジャー・テイラー(Dr.)への独占インタビューが公開された。
そしてもうひとつ、2011年にロンドンで開催されたクイーン40周年の回顧展「「Stormtrooper In Stilettos」でのインタビュー記事も昨日公開された。
回顧展でのロジャーのインタビューに強く頷けるものがあった。
:「自分が何者か分かっている、何になりたいかもわかっている」という言葉も覚えている。その道の妨げになるものは、彼は嫌ったんだ。それは僕にとっては良いお手本だった。
というのは、僕を含めた多くの人は、他人を喜ばせよう、好かれようと望みながら生きている。頼まれたから断れない、断ったら罪悪感に苛まれる。でも、フレディはそんな事は一切考えなかった。フレディは自分の目標に向かってまっしぐらで、その為の事しかしなかった。そこから学ぶことは大きいと思う。
ステージ上での人間離れしたパフォーマンスだけでなく、その人間らしさは僕にとってまさに「僕ができたらいいのに」と夢見た姿だった。
フレディの命日となった11月24日の上映ではポストカードが配られた。
そこに記された彼の、ステージ上での在り方。
「俺はアリーナの最後列の人たち、入場できなかった人たち、シャイな人たちのために、常に歌って繋がっているんだ。批評家や虐めっ子たちを飛び越えることで見せるんだ。俺にそれが出来れば、誰にだってやりたいことは出来るはず。」
史上最高のエンターテイナーと称される、フレディ・マーキュリー。
その真の姿は「同じ人間として」同じ境遇にいる者、弱き者、悩める者のヒーローである姿でもあったのかもしれない。
どんな感情もきっとQUEENの曲のカタチをしているんだと信じていた。
駆け出したくなるくらいのハイになったときは『Hammar to Fall』が流れていたし、追いやったはずの暗い闇がまた戻ってきたときには『Bohemian Rhapsody』が流れていた。
そしていつもは『Somebody to love』が流れている。
ブライアンは語る。
:クイーンには派手さや演出やドラマが常につきまとうけど、その底辺では、実は誰も感じたことのある気持ちを歌っていて、それがライヴ・エイドではっきりしたんだと思う。
QUEENは僕だとさへ思えた。
劇中で『Somebody to love』や『Under Pressure』がまるでその場面のために書き下ろされた曲だと感じられるように、ひとりひとりの、ひとつひとつの瞬間に根差している。
作中彼らは楽曲作りで衝突を時折見せる。
メンバーたちの個性が四者四様であったことは言うまでもなく、初期こそフレディやブライアンがその中心だったけれど、各々が持ち込む楽曲も大きな幅の開きがあった。
たとえば、映画内でもロジャーの楽曲『I'm In Love With My Car』が小ネタにされていたりするけれど(ちなみにこの楽曲はちゃんとリリースされていて最高にかっこいいロジャーの演奏と美声が映像作品として『QUEEN ROCK MONTREAL』に収録されている)、後に彼は19カ国で1位を獲得する『RADIO GAGA』を生み出したし、
ジョンは南米の各地で「解放」への象徴曲にもなった『I Want To Break Free』をもたらすなど、それぞれが現代にも通じるようなQUEENのシンボル的な楽曲を創り出した。
晩年こそ作曲クレジットは全て「QUEEN」に統一されるんだけれど(そうなった経緯や意図は映画で描かれている)、楽曲の原案を持ち込んだのが誰であれ、リリースされたモノの内に、そこに「これはブライアンらしいね」とかではなく、「QUEENらしさ」があるのは、健康的な化学反応だけでなく、衝突、摩擦や葛藤時に外部からのノイズを巻き込みながらバンド内で揉むことによって生まれたからだと思う。
映画の公式パンフレットの中で、音楽評論家の増田勇一氏がこの彼らの制作スタイルをこう評している。
:ことに初期においては、メンバー間のある種の競争意識、もっと自分自身の存在を認められたいという欲求のぶつかあいが、クイーンならではの決定的なスタイルが確立されていく過程においてとても重要だったということ。
僕には、なんだかそれが僕ら自身の頭でも起こっているものだと感じられる。
認識するにせよしないにせよ、僕らはいろんな集団、環境、マイノリティー、アイデンティティの中で常に変容し、ときに自分を裁き、最適化させながら生きている。
彼ら全ては他人であるけれど本質的に僕であり、僕の頭蓋骨の中の王国に膝を抱えて孤独に生きている。
その場その場で「もっと自分自身の存在を認められたい」という欲求のぶつけあいながら、その場その場で僕を勝ち取った僕によって、僕は生きている。
彼らひとりひとりの叫びにもならない慟哭がQUEENの楽曲だなあと思う。
何も特別なことではなくて、みんなの頭の中でも起こっているものだと思うんだけれど、あなたはどうだろうか。
特に初期においては、彼らの楽曲は大衆的とは言い難く、むしろ特異であり、時代や人によっては嫌悪されるものだった。
オペラ、ゴスペルといった様々なジャンルと融合し、ひとつになる。
革新的な多重コーラスはそれぞれの、存在を主張する叫び。
だからこそ、なかなか一概的に理解されなかった彼らの楽曲は、それぞれにちゃんと理解されなかった僕らの存在に強く響いている。
彼らの楽曲を聴くと、そのたびごとに救われる。
劇中にはQUEENの誕生に際して、「みな部屋の隅で膝を抱えて居場所がない。互いにのために音楽を奏でる、音楽が居場所なんだ。」というフレディの語りがある。
また、公式パンフレットではブライアンがライヴ・エイドを振り返り「いいパフォーマンスができて、最高の気分だった。素晴らしい思い出だ。全員がそれぞれのエゴを脇において、お互いをサポートし励ましあったんだ。」と、述べている。
なんだかその言葉に、意欲を失い崩壊寸前だったバンドを復活させたライヴ・エイドの偉大さを感じると共に、そこにQUEENの本質を感じたような勝手な気分になる。
「みな部屋の隅で膝を抱えて居場所がない。音楽が居場所なんだ。」
故に僕らは奇怪で常軌を逸した彼に夢を見て、そこに居場所を見出し、自分のなりたかった姿を投影している。
まあ、そういう営みは僕と彼ら彼女らがこんな関係である限りいつの時代も行われていること、あなたにとってのそれが宇多田ヒカルだとかEXILEとかボン・ジョビとかTHE EAGLESとか、彼女や彼であり、その望みを演じさせている部分もあるんだと思う。
フレディの場合、彼が生まれ持ったモノも「俺はパーフォーマー。誰もが望むモノを演じる」と在ろうとした姿もひっくるめて、彼は真性のパーフォーマーだった。
それ故に、世界中のその分母の大きさ故に、彼は愛を求めたんじゃないだろうか。
インタビュー記事でも(映画でも垣間見えるけれど)、フレディは『成功故の…』と僕らが慮りきれない葛藤について 、こんなことを語っている。
「成功すると『プライベートライフを守りたい』ってことにのるのさ。(中略)『今日の僕がフレディ・マーキュリーじゃなければなあ』って。(中略)フレディ・マーキュリーでいたい日があって、みんなに「あなたってステキね!」って言われたい日もあれば、その翌日にすごいプレッシャーを感じて『ああ…』ってことになる日もあるんだ。」
(MUSIC LIFE 1986年12月号 written by塚越みどり)
フレディは愛を求めていたんだと思う。
全ては僕らが言うことではないけれどロジャーやブライアンの語りを聴くに、移民であり同性愛者としても世間から好奇の目で見られたフレディのマイノリティとしての苦悩からも、愛を求めていた姿はあったりしたようだ。
愛を求め、愛されることを求め、愛を見つけること、そしてそれはカタチがないから見つかるものでもなく、彼は生涯を通じて愛を探し続けていたのではないかと感じる。
それはQUEENの曲に多く現れている気がする。
そんな「愛への渇望」みたいな曲が、多く発露されている。
それが1番強くやはり感じられたのは僕が好きな『Somebody to love』の使い方。
劇中、1番最初に流れる楽曲だ。ステキだったろ、ダーリン。本当に、この世のものとは思えないんだ。
僕はこの映画のタイトルは『Somebody to love』でも成り立つとは思う。それだけ、この映画でのフレディの叫びはこの曲で叫ばれているものと合致していると思う。
だから、物語のはじまり、この時フレディが独りでWembleyに入ってくる中流れていたのは愛を求める『Somebody to love』だ。
そして、フレディが再起したとき/真の愛を再び探しはじめたときに彼の日常に流れ出すのもこの曲であり、彼らは、QUEENはWembleyに立つ。
なんだか、とても、こう、嬉しかった。
少し歌詞を読んで、フレディ、全人類の渇望を覗いていみたい。
この曲がなかったら、間違いなく僕はとっくに死んでいる。
この映画を通して、世界にこれだけこの曲が好きな人がいるんだということが驚きで、とてもとても嬉しかった。肯定された気がした。家族になれた気がした。
和訳は拙訳。
訳出してしまうと英語本来のニュアンスはどうしても損なわれてしまうから、僕はこの曲は英歌詞のニュアンスのままに受け入れてるけれど、それだとなかなかご紹介にならないので訳してみました
2018年11月9日、公開初日
at TOHOシネマズ 日比谷: IMAX版で鑑賞。
超大画面/超高画質で眼前に広がる、高音質で脳を揺さぶるライヴ・エイド。
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2018年11月10日
at TOHOシネマズ 日比谷: 応援上映
ずっと、ずっとずっと、QUEENのライブに行くのが夢だった
一緒にAy-Ohのコールアンドレスポンスをして、
一緒にまるで自分の歌のように歌うのが夢だった
それはもう叶わない。
だから死ぬときは「QUEENのライブに行ってくる」と言って死ぬつもりだったんだけれど、夢が叶った。
『最高の天国』に、涙が止まらなかった。
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2018年11月11日
at 立川シネマシティ: 極上音響上映
超高音質、超高音響のQUEENのサウンドが体全身にぶつかってきて、降り注いできて僕は、一緒の時代を生きていた。
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2018年11月24日、フレディ命日
at TOHOシネマズ川崎 応援上映
いやあ、素晴らしい出来だった。
もちろんそれは内容的にも、QUEENのバンドサウンドをしっかり使ってくれたというところでもある。
多少は脚色されつつ、でもブライアンやロジャーが制作に関わっていながらそうなったってことは(どうやら監督は史実通りにやりたかったみたいだし)、やっぱり何か特別な意味があって、それ故に満足している。
と、前回書いたのだけれどいろいろインタビューが公開されて考えたりしたので追記。
話は「史実通りではなかった」ことについて。
これについてはNHKの独占インタビューが大切な答えだった。
【ロジャー】
:真実の物語ーーそれを伝える映画であることを僕もブライアンも望んでいた。
:(好奇の目で見られることに対して)もっといろいろなことが秘密にされていたし、フレディはすごく困惑していたと思う。
【ブライアン】
:伝記映画はドキュメンタリーのように映像と意見をつなぎ合わせるのではなく、物事の表層より深く入り込もうという試みだ。その人の外見を描くだけでなく、その人が何を考え、何が突き動かしたのかも絵の中に描こうという試みなんだ。
そこには何よりも彼の傷つきやすさ、それに強さも、さらに彼の中の葛藤もあり、映画はそれを描くことに成功した。フレディがそのとき口ひげを生やしていたかとか、どの出来事がいつ起きたかとかそう言う事実を追い求めるのではなく、フレディの内面までも理解できるような肖像画をどうやったら描けるのか、その追求だった。だからこそ、世界的にそうだと思うんだけど、映画を見始めると、観客にとってはイメージしていたものと少し違うかもしれない。
批評家は表面だけを見て「ここは正しくない、このツアーの描写は間違っている」と言うんだけど、これはドキュメンタリーじゃなくて、ある人物を描いた絵であり、肖像画なんだ。その点を理解していないと思う。そしてその人物は僕らにとってとても大切な人だったからね
フレディの死後、彼らの活動はフレディの名誉を守るための活動でもあった。
それを感じていたからこそ、新聞や批評家が書きたてる「フレディらしさ」ではなく、フレディ本人の肖像画を彼らは描こうとしているのではと、史実通りではないことはさほど注視すべきポイントではなかったし、多少そこを犠牲にしてまで描かれたその絵にとても満足している。
他にも、86年Wembley公演映像ですごく見覚えのあるリフトされたあの女性観客によく似たシルエットの観客が映っていたり、92年公開の『ウェインズ・ワールド』でBohemian Rhapsodyを聴きながら車内で頭を振り回していたマイク・マイヤーズが「車中で頭を振りながらこんな曲聴くやつなんているか?!」と言い放っていたり、そういうユーモアさへある。
劇中でもフレディが言っているけど、この物語が単に一人のゲイのロックスターがエイズで夭逝した悲劇の物語ではなかったことが、ライヴ・エイドで終わったことが嬉しかった。
ただのドキュメンタリーではなく、多少の脚色を交えながら、彼らが積み重ねてきた実績や地位というものがそんなモノなんかに侵されなくて、嬉しかった。
選ばれた人なんていない。
選んだ人しかいない。
I decide who I am.
インタビュー記事や動画を見ていると分かるが、彼は決して自分の音楽、在り方に妥協をすることはない。
彼の意志は、微塵も妥協を許さない。
「繰り返しは時間の浪費だ」
彼らは一度とった確実性のあるやり方をやり続けようとはせず、常に挑戦を求めた。
でも、僕は彼を選ばれた人だとこれからも思っていたい。
なぜなら、彼は『パフォーマー』だから。
そして、彼を選んだというその選択に誇らしくいれる人間でいたい。
繰り返しは時間の浪費だ
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Yeah, you don't waste no time at all
Don't hear the bell but you answer the call
It comes to you as to us all
Hey, we're just waiting
For the hammer to fall - yeah
一瞬でも無駄にするな
呼び鈴は聞こえないのに
君は応対してしまう
君にも僕にもいつかやってくるのさ
ただ待っているんだ
鉄槌が下されるのを
Yeah, tow your line and play their game
Yeah, let the anaesthetic cover it all
Till one day they call your name
You know it's time for the hammer to fall - yeah
主義を貫き 他人のゲームで遊び
感覚がマヒしたと覆い隠す
名前を呼ばれる日までね
わかるだろ
鉄槌が下される頃だって
For we who grew up tall and proud
In the shadow of the mushroom cloud
Convinced our voices can't be heard
We just wanna scream it louder and louder and louder
態度も誇りも成長した
キノコ雲の影の中で
僕らの声は届かない
ただ大声で叫びたいだけなんだ
What the hell we fighting for ?
Ah, just surrender and it won't hurt at all
You just got time to say your prayers
Eh, while you're waiting for the hammer to hammer to fall
Hey, yes, it's starting to fall eh, hammer, you know
Yeah, hammer to fall, wooh, ah, hey, eh woowoo, ha eh hammer
Waiting for the hammer to fall baby
Yeah yeah while you're waiting for the hammer to fall
Give it to me one more time
何のために戦っているというんだ?
諦めれば傷つかない
祈る時間はあろうだろう
鉄槌が振り下ろされる間はね
まっすぐ振り下ろされるんだ
そう鉄槌が下されるんだ
鉄槌が下されるのを待っている
もう一度だけ時間をくれよ
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(Hammar to Fall)
言葉を使っているとすごく音楽に憧れる。
感情を伝えたいときすごく音楽に憧れる。
言葉は音楽に憧れる。
言葉は音楽を超えられない。
だから僕らの言葉は届かない?
何のために戦っているというんだ?
諦めれば傷つかないのか?
祈っている場合か?
時間を浪費するな、一秒でも無駄にするな。
何のために戦っているというんだ?
ただ大声で叫びたいだけなんだ
時間を浪費するな、一秒でも無駄にするな。
We'll keep on fighting 'til the end
We are the champions
フレディは僕らの代弁者としてその幅の広い声域でどんな醜い叫びも大きく美しい音楽にしてくれる、そんな存在なんじゃないかなと、思った。
彼はもういない。
彼の声を背中に受けて、大声で叫ぶんだ。
Fly away, far away
Spread your little wings and fly away
Fly away, far away
翼を広げて 飛び立つんだ
飛んでいけ 遥か遠くへ
ちっちゃな翼を広げて 飛んでいけ
飛び立つんだ 遥か遠くへ
Pull yourself together
'Cos you know you should do better
That's because you're a free man
しっかりするんだ
何をすればいいかわかるはず
だって…おまえは"自由な人間"なんだから
🎤豪華アーティストが
— 映画『ボヘミアン・ラプソディ』公式 (@BohemianMovieJp) November 7, 2018
👑#クイーン をリスペクト❗
「誰もが必ずクイーンの影響を受けている」
「クイーンは今でも俺たちの一部」
ショーン・メンデス、バックストリート・ボーイズ、マイク・シノダ(リンキン・パーク)、5SOSらの胸アツコメント動画到着❗#ボヘミアンラプソディ #ボヘミアン胸熱 pic.twitter.com/jRjslNIo1P
この動画が好きでもうずっと見ていられる。
確かにフレディはひとりの人間であったけれど、こうしてみんなにとって何かフィクションめいたカッコいい存在として、「こうありたかった」存在の表象として今でも生き続けているのは、なんだか凄いよなあ。
人類史上、そういう風になにか神格化されたようで、でもどこか親しみやすく今でも思われている人間って滅多にいないんじゃないだろうか。
QUEENの素晴らしさは「同じことの繰り返しは時間の浪費だ」という革新さ、より良いモノを求めて独自のアンプを作ってしまったりする前衛さでもあると思う。
そしてそれはライヴ時の映像収録にも及んだ。彼らは早くから最先端のやり方で収録を行い、その恩恵で多くの偉大なライヴがとても良いクオリティーで残されている。
20年ほど前だった景色が当時の僕にはそれらが彼らの革新性も融合されて「未来」に見えたし、3〜40年以上経った今でも彼らのWorksはいつも「未来」だ。
冷静に考えて、それって凄くないか。
もうすぐ彼らは結成50年を迎える。
そんな自分が生まれてすらない時代のモノに、自分が生まれる前にフレディは亡くなってしまったというのに、僕は未だに彼らに救われて、そしてこの先3億年は、断言しよう、救われる。
ブライアンがNHKのインタビューにこう答えている。
:クイーンには派手さや演出やドラマが常につきまとうけど、その底辺では、実は誰も感じたことのある気持ちを歌っていて、それがライヴ・エイドではっきりしたんだと思う。
もしクイーンが成功した秘訣があるならそういうことだと思う。
ロックスターではなく人間であるという基本、そういうことだよ。
これからのいつの時代も僕らが人間で、音楽が僕らの共通言語である限り、女王は君臨し続けるのだろう。





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