雨、ところにより雨

皆さんは雨をどんな風に感じておりますでしょうか。
その雨音にどんな感情を紛れこませますでしょうか。

必要最低限度の暮らしをすることを『雨露をしのぐ』と言います。

また、『雨詩を催すという言葉があり、読んで字の如く「雨が詩を詠もうとする気持ちを呼び起こす」、という意味なのですが、これには頷くばかりですね。
 
 
雨音は外の雑音を消し去り、内側へと意識を向かわせます。

雨のイメージの豊かさは、他の自然現象の豊かさに比べると突出していますよね。

 

 

人は雨のイメージを利用しながら、自分の生き方や何を選んでしまったか、歩んできた道を過去に収めようとしているのではないでしょうか。

 

 

だから人は雨の日の出来事をより印象深く思い出す事が出来て、他の状況以上に強く印象付けられるのではないでしょうか。

 

 

人が自らの雨のイメージを語る時、そこにその人の歩んできた道や生き方が映し出される様に感じます。

 

雨は誰かにとって恋心であり、慕情や安らぎであり、悲痛な涙だったりする。

 
雨を題材にした歌や詩は日照りで困っているところをさっとぬらして通り過ぎて行く様な瞬間的な優しさと、その中に確かに雨跡を残していく強さを紡がれた言葉から感じられて、好きな歌や詩は多かったりします。
 
歌で言うと榎本くるみさんの『朝顔』に『雨降り小僧』、EGOISTの『雨、キミを連れて』であったり吉田拓郎さんの『たどり着いたらいつも雨降り』(蛇足ですがこの曲は猫のカバーver.が好きです。渋さがたまらんとです)であったり、さだまさしさんの『加速度』とか徳永英明さんの『Rainy Blue』とか。

詩だったら八木重吉や銀色夏生とか。
 
そういう雨にうたれていることが好きです。
 
雨の中でしか言えないこと、降ってくる感情、感じないことってあると思うのです。
雨音に紛れこませる様にしか紡げない感情ってあると思うのです。

だから、僕とっては例えそれが露程であろうとも、雨は凌ぐものではなくて、いっそ雨にうたれることが必要最低限度の暮らしになっているのかもしれません。
 
 
去年は『青』という切り口から僕の中の雨宮天さんという虚像について考えてみたのですが、今年は『雨』という切り口で考えてみたいと思います。    

「黒や白という視点から考えるのはどうでしょう」、とお言葉を頂いたりもしたのですがお勉強して自分の中で咀嚼して吟味してから口に乗せるには時間がかかるな、と思ったので、またいつか。 

雨の中だからこそ思う気持ちを、少し雨音に紛れさせてみたいと思います。
そう、虚像なんですよね。
 
これから僕が雨水を垂らすことで広がっていく色は「僕が考える雨宮天さんの色」であって、「雨宮天さんご自身の色」ではありません。
 
色の最終的な源泉は個人の中にしかない』、という僕の中で大前提があったりして、それはその人だけのユニークで交換不可能な、決して他の人には出せない色だと思うのです。 
 
それは当然尊重されるべきであり、こうして勝手に考えることは雨の日の水やりかもしれません。

でも、2014年大晦日の記事で
『こうだ!』って決めつけないで、『こういうことかな?』とか、『分からない』って思って下さりありがとうございます
 
 
と仰っている様に勝手に決めつけるよりは考えて考えて問いの内に留まっていたいなぁ、なんて。 
 
 
石川県の方では雨休みのことを雨やしこ、と言うそうです。かわいい。 
 
日々の雨やしこ程度のお気持ちでお付き合い頂ければなと思います。 
 

パッと頭に浮かんだのは『一週間フレンズ。』。
2014年の4からテレビアニメは放送されました。

春雨』と言ってしまうとなんだか味気ないですが、春雨を言い換えた言葉に『万糸雨』という言葉があります。

細かく温もりを帯びていて、かすかで柔らかい雨。萌え立つ野山の草木に降りかかる無数の細かい、糸のような雨、それが万糸雨。
 
雨宮天さんが演じられた藤宮香織と“友達”達が紡ぐ世界、そしてエンディング曲の『奏』のイメージはそんな優しい雨でしたね。
 
声優として、そしてその後のアーティスト活動を予感/期待させる作品となったこの『一週間フレンズ。』、物語が紡がれていく時期は確か5月、エンディング曲の『奏』が発売されたのも521日。『青葉雨』の季節ですね。
 
 
青葉雨とは、木々の青葉に降りかかる雨のこと。
 
未熟である状態はしばし『青』で表されます。思うに『青』は「弱さ」というモノを背負わされた色であるのかもしれません。
「熟 す」から遠く離れた状態だから遠さの『青』 なのか、そもそも遠い『青』に憧れる状態が弱々しいからなのか。
 
春萌え出た新芽は緑の濃さを増し、やがて青葉の時を迎えます。
 
青葉をぬらして降る雨が『青葉雨』。木々の青葉からしたたり落ちる水滴を時雨に見たてたのが『青時雨』。
この頃吹く風の事を、『青葉風』と言うそうな。
 
 
時雨』は晴れていたかと思うとにわかに降り、またすぐやむという様に変化自在な雨。
 
ちょうど様々な役を演じられる様になってきた季節。これからどんな役を演じられ、どんな声優さんになっていくのか、そこにこちらの願望なんて存在せず、その自在に変化していくであろう「これから」を青時雨に重ねていたことを思い出します。
 

次の雨音を確かに記憶しているのは8月。デビューシングルである『Skyreach』が発売されたのは8月13日でした。

あくまで僕の中にあるイメージの話なんですけれども(そもそもこの文章は全て僕のイメージ)、雨を自分への困難や阻むものと考えた時に、それを受けての行き/生き方って2つに分かれると思うんです。

強行突破か、雨宿りか。

この1stシングルに収められた『Skyreach』と『夢空』の2曲はそれぞれを顕しているなと思えまして。

雨という超えても超えても目の前に立ち現れる限界という壁に、それでも強く迷い無い瞳で超えていく強行突破的姿勢の『Skyreach』


軒先でその雨に様々な心情を重ねることでその雨の本質を捉え、その底を支える内なる心情と出会い、小降りになった雨の中を雨嘯しながら進んでいく『夢空』


そこでの雨の降り方であったり、それを汲み取る感情やそれを結果的に早天の慈雨(肯定的)として捉えるか身を知る雨(否定的)として捉えるかでまた枝分かれしていくんですけれど。

羅生門なんかはちょっと異質ですよね。それ故あれだけ文学作品として名声を得ているのでしょうけれど(てきとう)


そして、雨宮天さんの1stライブとなった“Various SKY”でのセットリストは“Various RAIN”と言い換えても違和感ないくらいに僕の中では感じられて。
語感を気にする声は雨音で聞こえない、聞こえない。

幾日も降り続く連雨と自分の気持ちを重ね、雨奇晴好として捉えたり溟雨涙雨として捉えたり。

時に強行突破したり雨宿りしたり、傘をさしながら雨垂れ調子に心情を紡いでみたり。
 
 
そしてあのライブで辿り着いた先にあった最後の曲は、『RAINBOW』(虹)だったでしょう。
 
 
つまりはその歩んできた道は雨過天晴(その数々の雨それぞれに込められていた意志という青は不動でその虹の先には最高密度の青が立ち現れていたってこと、やっぱりあなたは青だな、って意味合いで僕はここでは雨過天青と書きたかったけれど何だか恥ずかしくなったので書かない)であったという事。
 
 
(いや、でもこの言葉の成り立ちである陳舜臣の『雨過天青』を読むとこの言葉は『青』だと思うし、「絶対的な青」を探しにいく旅、「これからも続く」ということを踏まえると『青』だなぁ。でもそう書いて友達に噂とかされると恥ずかしいし・・・)
 
まぁ、あの曲順はそんなトキメキがメモリアルに焼き付いておりまして。
 
 
そして、それはつまり所謂「no rain no rainbow」って訳で。

凄く今更だけれど、今あの“Various SKY”というライブをそんな視点で振り返ると、雨後の筍(出てくるの遅すぎるよ)に気持ちが湧いてくるのです。
いちにょき。

あのゲームで「いにょき!」と噛んでしまい苦し紛れに猪木のモノマネをしたお楽しみ会での失笑が僕をこんな人間に成長させてくれました。

いかん、雨の日の水やり的なお話でしたね。
それとは別に、あのライブのラスト3曲は『奏』、『After the Tears』、『RAINBOW』だった訳なんです。

雨宮天さんのデビューまでとデビューしてからのこのライブまでの雨跡を辿ると『奏』(デビュー前)、『Skyreach』(デビュー)、『RAINBOW』(初ライブ)じゃないですか。
 
 
アーティスト面なのでアフレコのお仕事とかはちょっとこの際雨に濡れない様置いておいて、『奏』はやっぱりおじさん外せないからごめんとして。
 
 
その2年間、雨宮天さんが実際に辿った道は雑誌記事などで本人の声を受け止めた限り、『奏』、『Skyreach』(強行突破)、『RAINBOW』その通りだった様に思えるんですよね。

実際、藻掻きながら進まれている姿に確かに力を貰っていた反面、勝手に心配…うーん、こんな言葉じゃなくて、なんか、こう、喉奥にくるような苦しさはあったのですよ。勝手にね。

「もともと歌は好きで、ずっと「うまくなりたい」とは思っていましたけど。でも、「うまくなりたい」と思いすぎて嫌いになった時期もあって(中略)自分の歌を聴いて幻滅しかなかったというか、絶望してしまって。

 

それがデビューするということになると、もう歌から離れるわけにはいかないので、絶望しても練習して上達していくしか乗り越える方法はないから、きっと今よりもうまくなっていけると思うんです。」

 

 

「自分ってこんなにできないんだと感じて、そう思ってしまうと周りの方に「良かったよ!」と言ってもらっても「こんなんじゃ・・・」と思っちゃうんですよね。でも諦めきれない気持ちがあって続けてきて、今はそれを乗り越えて前に進んでいきたいという強い気持ちがあって。自分に対して「ありえない」と何度思ったことか。」

 

と仰っている様に。

 

 

でも、実際にこのライブでは『奏』、『After the Tears』、『RAINBOW』だった訳で。

 

 

先の話に戻りますが、この『After the Tears』は雨宿りの方の曲、それもどこか『夢空』と似てる雨の捉え方、だけれど決定的にあの頃と違うのです。

 

勘違いしますね。

 

イメージということで簡単に述べると、『夢空』は雨宮天さん御本人、お独り。

 

『After the Tears』は雨宮天さんと周りの人、そして「応援してくれる人達」。

 

独りで雨宿りをしているのではなく、その雨樋から漏れた雨水が染み込む木造バス停には、安心できる周りの人達がいると感じられるのですよね。

 

 

別に甲乙つけたいとか、表題曲は『夢空』の方が良かったとかそういう事は微塵も思ってなくてそんな話は雨の日の水やりだと思うんですけれど、『Skyreach』をそんな風に捉えた時に、この局は分岐点だったのかな、って。

 

 

いや、分岐点というか表は強行突破の『Skyreach』でしたけれど雑誌記事などを読み返したり、実際に僕が感じた色を踏まえると確かに『夢空』的な雨宿りの心情も抱えていらした様に憶えていて。

 

いつも胸に引っかかっていたのはその強行突破していく姿の奥に、決めつけてはいけないなと思いつつ在るんだろうなと思いながら「在るから」と決めつけ自分の行き過ぎた接し方のストッパーになっていた『夢空』的心情(伝わり辛かったら歌詞読んでもらえれば)で。

 

 

その先は果たして幸せな景色なのかな、と感じていて。

(強行突破が悪いという意味は内包せず)

 

 

ここまで勘違いで、ここからも勘違い。

 

だからこそ、あのライブでの『奏』、『After the Tears』の流れが、もう1つの流れである『奏』、『夢空』の流れの様に感じられて。

 

 

そしてそれが虹に繋がっていたんだって今気づいて、いや勘違いを通して勝手にこじつけて、その身を知る雨に先人と同じ様に「涙」を掛けて一句詠みたい自分がいるのですよ。

 

詠めないけれど。

 

そして、あの日『RAINBOW』の後に僕の心に降っていた遣らずの雨を、僕はずっと憶えていたい。

 

以上、勘違いだけれど、勘違いとして自分的には受け止めずに僕の心に在った/合った事として受け止めて頑張っていきたいな、っていう気持ち。

 

こんな視点で降り方を振り返りたいから、映像をだね。

 

こちとら頭の中の映像がずっと雨音のようなザーザーなのだよ。

 

 


 

年ごとに、編年体で振り返っていくつもりだったのですが何かいろいろすっ飛ばして“Various SKY”までいってしまいましたね。
 
雨宮天さんと雨、最も印象に残っているのはやはり『Skyreach』のプレリリースイベントでしょうか。

会場を出ると、バケツをひっくり返したような雨で家に帰る頃にはズボンの裾がぐしょぐしょでした。しかし、その雨は今でも思い出として残っている通り八重雨』のように心地よくて。

恋人や客を帰さないように激しく降る雨を『遣らずの雨』と言いますが「あれぞ、まさに!」だったなと、今更ながらに思い出しますね。
 
 
さて、『蕗の雨』という言葉がありまして、こちらは文字通り蕗の葉に降りかかる雨のことを指します。
 
蕗の学名はつばの広い帽子という意味のギリシア語ぺタソス(Petasos)からきたペタシテス(Petasites)

蕗は青々とした大きな葉をいっぱいに広げ、大きな葉をうつ雨音は豪快なものとなります。
 
その『蕗の雨』という言葉で思い浮かんだ、豪快に進んでいく姿と重なるのは2015年でしょうか。

前年の秋クールから放送された『東京喰種トーキョーグール』とその続編『東京喰種トーキョーグール√A』の霧嶋董香であったり、『プラスティック・メモリーズ』のアイラや、演じられたキャラクターで最も好きな『パンチライン』の成木野みかたんであったり、『モンスター娘のいる日常』のミーアであったり。

少し感覚的なところであり、そこの気持ちを支えている底の感情を上手く言葉で掬い取れないのですが、あの時期はクールが変わるごとに異なる演技に触れる事が出来て日々の良い雨宿りでしたね。

ユニット『TrySail』の始動も2015年春でしたね。

そして、現にそのユニット活動の方でも雨夜の星の様にめったに見られない自分の中の感情に出逢わせて頂いてるんですけれど。
そうか、あの春の頃はTrySailのデビューもありましたか。

そうなると、あの大きな雨音をもたらした雨は蕗の雨と言うよりは板屋春雨多しというやつですね。

今だからこそ振り返るとその様な雨に思えますが、多分当時はそんなこと強くは考えてなかったと憶えています。

その雨音が1年前の優しいものと大きく変わって、豪快な雨音をうっているのにようやく気づいたのは写真集『ソライロ』の発売記念イベントでの終わりのご挨拶でしょうか。

今はうまくそこの感情を言葉にしきる自信がないので引用しませんが。
 
確かにその挨拶を聴いていて、雨音という意識はなくとも「こんな事考えられる(この「られる」は尊敬の助動詞)ようになったのだなぁ」と、そこまでの櫛風沐雨、風に櫛 り雨に沐 うようなこちらでは測り知れない苦労の存在を慮りつつ、「これまで」の積み重ねを感じつつ「これから」に対してじんわりと胸が熱くなったのを今でも憶えています。

2015年の雨はそんな感じで、2016年の雨はさっきバケツをひっくり返した通りですかね(急に疲れて言葉の置き方が雑になる)。

年ごとに見ていくとそんな感じなのですが、僕が雨宮天さんにイメージする雨は『時雨』だなぁと思えるのです。

時雨は晴れていたかと思うとにわかに降り、またすぐやむという様に変化自在な雨。

例えば『秋時雨』と言いますと冬到来を間近に思わせて侘しさや寂寥を感じさせてくれます。

本来時雨は秋から初冬にかけて降る雨の意なのですが、実際はどの季節に関わらずこの『時雨』を冠した心情を描写する言葉が多くあります。

先ほど使った『青時雨』は青葉の季節にに降り注ぐ雨ですし、『花時雨』は咲き匂う桜の花びらをさっと濡らして通り過ぎる束の間の雨。

そして、多くの歌で詠まれている袖時雨
 
国会図書館でお勉強している時に途中から「もうやめよう」って思ってしまうくらい『時雨』を冠した描写はまだまだあって。
 
 
『時雨』という言葉はその降ってはすぐやみという変幻自在な降り方だけでなく、人に様々な感情を想起させるまさに変幻自在な雨なのです。
 
その降ってすぐやむという降り方というより、その変幻自在さが雨宮天さんに想起する『時雨』かなぁ、と。
 
時に青葉雨で蕗の雨で天泣で、夜半の雨で、八重雨で。
 
 
多くの作品で変幻自在にいろんなキャラクターを演じられるのも『時雨』みたいだなって思いますし、どの曲にも秘められた『青さ』の絶対的な意志の存在は肯定しつつ曲ごとのその多様な世界観だとか。

でも、こう形容するとおそらく「他の声優さんも同じじゃん」って思われてしまうかもなんですけれど。
それは正解です。

要はその先であって、僕がその雨を例えば『青時雨』だなぁとか夜半の雨だなって感じるのは雨宮天さんだからであって、雨宮天さんのスタイルに惹かれたからであって。

だから抽象的なんですけれど他の人の雨にあってもそれを「慈雨」だなとは思わないというか、その人が選んだもの、惹かれたスタイルは人それぞれな訳で。

そこから脚をのばしたくなる感情はまた放り投げて雨曝しにしておくとして。

雨の感じ方って人それぞれだし、その雨を何とも思わない人や倦む人がいたりする一方で、愛雨だと好む人がいたり時に慈雨や涙雨の様に感じる人もいる訳で。

なんの話だっけ。

ちょっと雨域が広範囲になってしまいましたが、要は僕は雨宮天さんの表現したり紡ぐモノが様々な雨の様に感じられて好きだし、その雨だからこそ浮かび上がる感情が僕にはあったりして、好きなんです。

感覚的なところになっちゃうんですけれど、僕は雨宮天さんの雨が好きなのです。
これだけその感情を言葉で囲い込もうと準備して言葉蓄えてきて、結局感覚的かよ…ってなりますね(笑) 

言葉って難しい。
本当はもっともっと言葉を尽くして書きたい感情があるんですけれどね。

多分うまく書けないのは、いつも僕が雨を受けている時にいつも無声慟哭ながらに時雨心地になってしまうからかな。

本来の予報では先程ちょこっと触れたように演じられたキャラクターを絡めて考えていくつもりでした。

いつもどうしても書くことはアーティスト面になってしまいますからね。

でも、僕はあまりキャラクターのこういう演技が好き!とか端的に言うとそのキャラクターを通して演者さんを見るのって得意ではなくて。

どうしてもキャラクターをそのアニメの舞台、世界の1人の存在として見てしまうので多分今後も書ける気がしません。

あ、滅多に書く流れにならないから少しキャラクターのお話。

『パンチライン』の成木野みかたんは本当に時雨みたいな女の子だなって思います。キャラソンの、星よりひそかで雨より優しい『約束の彼方』や『On Your Side』は本当に大好きです。

あと、『デジモンワールド -next 0rder-』のルーシュは孫って感じがして好きです。
なんか、雨雲もばちこーんってふっ飛ばしちゃいそうな子ですよね。

さて、九州の言葉に『雨訪』という言葉があります。

これは大雨の後に近所の人へ訪れるという意なのですが、割と、こう、びゃーって降られて自分自身「びゃーっ」てなってる時に、ふと近所の親しくして頂いてる方を訪ねるとその人も「びゃーっ」ってなりつつ、結局互いにびゃーびゃーと「あの雨凄かったねぇ」「雨の中どうしてたの?」ってお話しながらしゅわしゅわのビーヤーを飲むのが、本当に楽しくてね。
僕は日本酒の方が好きですけど。

そんな波長が合う人も、あの時同じ場所で雨宿りしたから出会えた方々で。

あなたの雨のおかげです、ありがとうございます。
あまんじゃくなものでね、我々。
いつも雨をありがとうございますね。

 

 

雨過天青』という言葉を先ほど使いました。 

もともと陳舜臣の同題からきた言葉でして。そこから感情を解いていきたいので少し内容をご紹介しますね。

 

 

『世宗は首都開封府に釜をひらいて、青磁を焼造させた。そのとき、家臣が「どんな色の磁器を焼造しましょうか。」と、訊いたところ、雨過天青雲破処と答えたという。


雨が上がった(過ぎた)ばかりの空の青さ、それも雲が破れるようにして、晴れはじめた、そのあたりの青だと難しい注文をしたのである。そこで焼造された物は『雨過天青磁』と名付けられた。』

 

 

と、まぁそんなお話なのですが正直僕は空の青と雨宮天さんの青は同じ色とは思えないので、ここまでは正直どうでも良くてですね。

 

 

感情を預けたいのはこの言葉の説明の結び。

 

『この青磁は未だに一つも発見されていない』

 

という結び。

『Absolute Blue』という曲を聴いていて真っ先に浮かんだのはこのお話しなんですけれども。

 

きっとそれは見つからないのだろうと思うし、きっとそれは見つけられるんだろうなって。

 

これはこの記事の何処かで書いたっけ、青って遠さの色だと思うので。

つまりその青を探す旅はこれからも続くんだろうな、と。

 

 

 

 

私が青にイメージするもの、青に込めてきたものって、意志の強さなんです。

 

 

『irodori』の発売特集記事にそう寄せていらっしゃいましたね。

 

その青がどんな色なのか、その源泉は本人にしか解らない所だと思うのですが、うん、ちょっと他人行儀になってしまうのですが、見つかるといいですねって。

 

 

あなたが生まれてきた意味を、生きている理由を私は作れないので、他人行儀になっちまうのは仕方なかね。

 

 

 

そんな道を、楽しく雨嘯しながら、時に雨宿り、時に強行突破しながら進んでもらうために、どう在るべきなんだろうって、ぽやぽや考えておりました。

 

 

 

 

かわかみたかこさんの絵本に『たまちゃんのすてきなかさ』という作品があります。

 

主人公のたまちゃんはお気に入りの黄色い傘を持って散歩に出かけます。

しかし、途中から雨が降ってきたので傘を開くと、なんと傘にまあるい穴がいくつも開いていたのでした。

 

慌てて雨宿りをするたまちゃん。

そこに窮状を見かねて、軒先の蜘蛛がやってきて自分の糸で傘の穴に網を張って塞いでくれたのです。

 

そのお陰でまた散歩を再開できたたまちゃん。

 

それだけでなく、糸にひっかかったしずくがきらきらして、たまちゃんは傘が素敵になったと喜ぶのでした

 

しかし、雨がさらに強くなってくると穴に張った糸がほつれて雨粒がそこから落ちてきてしまいました。

たまちゃんは再び木陰に駆け込むのです。

 

そこでも同じ様に、今度は鳥が声を掛けてくれました。あじさいの花びらで傘の穴を塞いでくれたのです。

穴がふさがっただけでなく、花模様ができたと喜ぶたまちゃん。

 

しかししかし、強さを増した風に今度は花びらが吹き飛んでしまいます。

 

すると、公園の池にいたカエルが、傘に跳び乗って傘の穴を塞いでくれたのです。

 

傘の上でカエルたちが歌う声を聴きながら、たまちゃんは楽しい散歩を続けるのでした。

 

そんなお話。

 

 

さて、たまちゃんの傘はスタートから穴が開いていました。

たまちゃんは、その都度、周囲の協力も得てその穴を塞ぐ工夫をしていく。

 

 

それは、たまちゃんが雨宿りをする都度に弱みをきちんと見せるので、そんなたまちゃんの歩き方が招いた周りの助けなんでしょうけれど。

 

 

もちろん、僕らはこのカエルたちの様に直接その傘を修理して直接散歩を彩ることはできないけれど、弱みをきちんと見せてほしいとかでもないけれど(今の自分を受け止めた過程を前提に、言葉という形で見せてくれるのはしっかり受け止めたいけれど)、そんな関係で在りたい。

 

 

 

そういう在り方が多分今の所僕が考えつく限りでは理想なんじゃないかな、と思うのです。あくまで今の僕はね。

 

 

 

また、こいでやすこさんの作品に『かさ かしてあげる』という絵本があるんですけれど。

 

この物語は、森で雨に降られたなっちゃんが傘がなくて困っている場面から始まります。

 

なっちゃんの為にいろいろな動物たちが傘を差し出してくれます。

ありさん、かえるさん、うさぎさん、たぬきさん、そしてくまさん。

 

それは全て自分が普段使っている葉っぱの傘でした。

 

しかし、それはどれもこれも、なっちゃんにとって小さすぎたり大きく重すぎたりして彼女の役には立ちません。

 

最終的に、彼女の家から犬が「なっちゃんのかさ」を持ってきてくれて、ようやく彼女は安心して傘をさすのです。

 

そして、彼女が歩き出すと、その後ろにはめいめいに自分に合ったサイズの葉っぱの傘をさした動物たちが続くのでした。

 

傘は各々のサイズに合ったものが必要で、自分が他者に差し出す傘も、そのまま相手に役立つ訳ではないということで。

 

私たちは、知らず知らずの内に自分の使う傘を標準にしているものだなと思っていて、自分の生き方であったり、問題へのアプローチであったり、それはその人の個性だとか価値観というユニークで交換不可能な色に根ざしているものだなと思っていて。

 

 

また僕自身の哲学な話を帯びてきたので切り上げますが、なんだろうな、こう、雨の中でもたまちゃんやなっちゃんの様に楽しく歩んでいってほしいな。

 

そして、周りの動物のように、彩れる程綺麗な存在でもないけれど、そんな関係で在りたいなって。

 

 


長雨ですね。
皆さま、いかがお過ごしでしょうか。
そろそろ湿気も酷くカビが生えてきそうなので、帰りますね。
オーストラリアの気象学者であるボーエン博士は世界の雨量を調べ、流星群が現れると約30日後に雨が多くなることを確かめたそうです。
そして、大気中に落下した宇宙塵が雨の核になったのだろうと推測されたそうで。宇宙の塵が核となってできる雨。
雨の中に、星屑が入っている。
今後も、そんな雨が降っていますように。
時雨心地ながら、雨垂調子に気持ちを紡いでみました。
予報以上に、うまく書けませんでした。予報だもんね、うん、外れるさ。
多分自分が1番雨脚を強くさせたかったのは、この1つ上の絵本のあたりの章だと思います。
その気持ちは、自分でも忘れずにいたいですね。

雨は土をうるおしてゆく 

雨というもののそばにしゃがんで 

雨のすることをみていたい

(『雨』八木重吉)

 

 


窓をあけて雨をみていると 
なんにも要(い)らないから 
こうしておだやかなきもちでいたいとおもう

(『雨』八木重吉)

 

 

お誕生日おめでとうございますというのはどうもピンときませんし、お祝いしていいのかそんな立場なのか分からないので。

23歳の1年も、どうもすみませんでした。
たくさんたくさん、すみませんでした。
そして、たくさんたくさん、ありがとうございました。

平等に扱ってくれて、ありがとうございました。
あなたが降らせてくれた雨のおかげで、枯れずにすみました。
 
 
頂いている雨を芽木の雨として、実をつけれる様自分で頑張ります。

どうか今年も健康にお過ごしくださいませ。
充実した1年に、なりますよう。
またこの1年後に、お互い無事に居られますように。