スティル・ライフ


平成が終わろうとしている。 

「西暦は時を示す点であり、元号はその時代を束ねる帯だ」と、誰かが言っていた。

 

元号が帯だというのなら、束ねられる身体というのは「その時々の僕ら」であるんだけれど、つまりそれって元号が変わっても『僕』っていう実存は変わらないっていうことなんだよね。

 

結局元号が変わっても、兎にも角にも跳ねたり丸まったりできず変えることのできない一面的な人格を宿したまま、次の時代になっても僕らの営みはずっと続いていくんじゃないだろうか。

 

 

平成最後にやり残したこと。

 

終わる日々に、ずっと続いていくことについて考えること。

 

池澤夏樹の「スティル・ライフ」を読み直した。

(そしてここで織田裕二は『FEEL LIVE』を歌いだす)


この世界がきみのために存在すると思ってはいけない 。世界はきみを入れる容器ではない 。

 世界ときみは 、二本の木が並んで立つように 、どちらも寄りかかることなく 、それぞれまっすぐに立っている 。

 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている 。それを喜んでいる 。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない 。

 

 でも 、外に立つ世界とは別に 、きみの中にも 、一つの世界がある 。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる 。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる 。

 大事なのは 、山脈や 、人や 、染色工場や 、セミ時雨などからなる外の世界と 、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること 、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ 。

 たとえば 、星を見るとかして 。

 

 二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると 、毎日を過すのはずっと楽になる 。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる 。

 水の味がわかり 、人を怒らせることが少なくなる 。星を正しく見るのはむずかしいが 、上手になればそれだけの効果があがるだろう 。

 星ではなく 、せせらぎや 、セミ時雨でもいいのだけれども 。

(池澤夏樹「スティル・ライフ」中央公論社 1991年 )


ここで言う「きみ」とは僕ら一人ひとりであり、それぞれの内に抱える世界でもあり、僕でもある。

そしてここで言う「世界」は様々なメタファーに取ることができると思う。

文字通り自分が立ち向かう世界であり、僕のようにあなたが想う誰かでもあり、時たまそれはもうひとりの僕自身でもある。

 

「世界」と「僕」は互いにまっすぐに立っている。

二本の木が並んで立つように 、どちらも寄りかかることなく 。

それぞれまっすぐに立っている 。

 

世界の方はあまり僕のことを考えていないけれど。

 

 

「きっと 、人の手が届かない領域は案外広いんだよ 」と佐々井が言った 。 
「高い棚の隅に何か小さなものが置いてある 。人が下から手を伸ばして取ろうとするけれど 、ぎりぎりの隅の方だからそこまでは手が届かない 。踏台がないかぎりそれは取れない 。そういう領域があるんだ 」

 (同上)

 

(…)
「人の手が届かない部分があるんだよ 」と佐々井がもう一度言った 。
「天使にまかせておいて 、人は結果を見るしかない部分 。人は星の配置を変えることはできないだろう 。おもしろい形の星座を作るわけにはいかないんだ 。だから 、ぼくたちは安心して並んだ星を見るのさ 」
(同上)

 

 

人の手では届かない領域も案外広い、というこの佐々井のセリフは色濃く影として僕の像を形作っている。

 

ここでの手が届かない領域とは、先ほどの様々なメタファーとしての「世界」である。きっとあなたは僕とは違った世界をそこに投影していることだろう。

 

 

手の届かない領域を自覚すること、それは"きみの意識は二つの世界の境界の上にいる ""一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。"と同義である。

 

スティル・ライフ。

終わる日々と共に終わらせてはいけないもの。

 

ずっと続いていく営み。

 

それを僕は、意識をこの二つの世界の境界の上におくことを以って高い軌道から様々な世界と対峙することだと思う。


「この三か月は本当に面白かったよ 」とぼくは 、いろいろな氷河の写真を壁面に映しながら 、言った 。
 「それはよかった 」と佐々井の声が言った 。 
「まるで、高い軌道の上から自分たちを見ていたみたいだ。 」
「むずかしいことじゃないんだよ 、心の一部を軌道に上げておくのは 。誰だってやれる 」
 「いや 、やっぱりきみの方が特別なんだと思う 。第一 、きみには人格が二つある 」とぼくは言った 。 
「二重人格かい ? 」と佐々井の声が聞く 。 
「いや 、二つの人格 。二重だと互いに抵触して混乱があるだろ 。きみの場合には完全に分かれて 、相互に独立している 」 
「二人いるわけ ? 」
 「そういう感じはしないんだ 。裏表でもない 。右脳と左脳かな 」 
「どう違うんだい ? 」
 「まるで違う 。一方は 、昨日と同じ今日にも満足する 、逃亡生活にふさわしい等身大のきみ 。周囲の状況をリアル ・タイムで正確に読み取っている動物 、あの一頭だけの草食動物としてのきみだよ 」
 「もう一つは ? 」 
「もう一つは 、ニュ ートリノの飛来を感知できる宇宙的なきみ 。山や高原や惑星や星雲と同じディメンションの 、希薄な存在 。拡大されたきみ 。軌道の上にいるきみだ 。なぜ二つの人格なのかな ? 」 
「さあ 」と言って佐々井は 、ちょっと困ったように笑った 。 
 
「きみは本当にこのぼくたちの世界に属するんだろうか ? 」 
「え ?どういうこと ? 」 
「違う世界から来たんじゃないかと思って 」 
「そんなことはないよ 」
 「あの株だって 、ひょっとしたらタイム ・マシンで明日の新聞を読んでやっていたのかもしれない 。それなら 、利益をあげるのは簡単だし 、あんまり簡単だからつまらないということにもなるだろう 」
 「それじゃ 、ぼくは別の星から送りこまれたのか 」 
「そう 、大熊座から来たんだ 」
(同上)

虚像だと思っていて。
虚像を押し付けたくないなって、今も変わらず思う。
 
僕はよくこの話を、対象が雨宮さんという前提でお話するんだけれど、それは別に彼女だけにそう思っているわけじゃなくて、あなた、そして世界に対してそう思っている。
 
もしかしたら、口癖のようにそう述べることで世界との間に距離を取り、寄りかからないように自分の足で立とうとしているのかもしれない。
 
その人の色の源泉ってその人の中にしかないものだ。
そして僕らが出会うのは本来の「きみ」の横に並び立つ、言わば共有スペース、「公園」とでも言おうか、そんな公共スペースでの「きみ」でしかないからそこで出会う僕らは本来の像ではなく虚像でしかない。
 
そんな公園での出来事に僕らは「あそこなら本当の自分でいられる」と時たま言ったりするけれど、それは嘘で「在りたい理想的な自分でいられる」に過ぎない。
そこでの出来事は地に足が着いてない空想での出来事で、確かにそこでは自分という物語を読み解く鍵を得ることはできるけれどそれはヒントでしかなくて、「本当」っていうのは結局自分だけの世界にしかないのではと思う。
いつも返してくれるあたたかさに「虚像じゃないかもしれない」と思わせるものはあるけれど、それは僕らが言葉にして返していい言葉ではないんじゃないかと僕は思うし、手の届かない星を見る僕という立場上そう思い込まないといけない、というか、返してはいけないという借りを持つことで僕らは繋がっていられる。

 

 

僕らに見せてくれているものは、これまで生きてきた時間から伝えたい部分を切り取った分のうちのごく僅かな「自分」で、すごく一面的なもの。
きっとあなたが僕に見せてくれているのも、そんな一面的なものであるはずだ。
 
人のある一面に好感を抱くと、それがただ一つの真実のように見える。一方でそれと反対の予想外の一面が覗くと「こんな人じゃない」とそれを否定し、その人にこう在ってほしいという像を押し付けてしまう。
その像は僕らの仮想で仮装した「きみ」でしかない。
『スティル・ライフ』という作品上の二人の関わり方で好きなのところに、お互いが相手の語りを待つまで深く詮索しないことがある。
引用した通りの会話劇で物語は展開されていく。

佐々井は何故「ぼく」を指名したか。

それは互いのそんな距離感が心地よかったんじゃないだろうか。

 

『語り』は聴き手によって影響される。誰に語るかによって影響されるものだ。それは『語り』というものが、話し手と聴き手の間に共振的にひとつの場を励起させるからで、その心地よさに依拠するところは大きい。

 

その互いに「きっと 、人の手が届かない領域は案外広いんだよ 」と発揮されていく距離感。

 

そういった距離感で心許せる他者に対して、全部は無理でもほんのすこし重なった場所で一瞬でもその人の人生に深く関係するというその責任の重さはそのまま僕らの踵にずっしりと重みを与え地に足を根付かせ、そして心をじんわりと柔く焦がす。

 

そして、そこに自分の世界が立ち現れる。

 

世界と僕は二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、そう、寄りかかることなくそれぞれまっすぐに立っている 。

そして自分のそばに世界という立派な木があることはとても幸せなことなのだ。

 

世界の方はあまり僕のことを考えていないかもしれないけれど、時々自分の内とは違う世界に出かけては「いい映画を見た」とまたそれぞれの問題を抱えた世界に戻っていく。

その時間はどんなに一瞬であれ、自分が勝手に創造した身勝手な空間であれ、それでも僕という存在を生かし続けてくれるとても尊い一瞬なのだと思う。

 

そんな風に互いにじんわりと影響を与え合うことはなんて綺麗なことなんだろうと思う。


スティル・ライフ

 

この続いてく世界で、時々僕らが思い出さなくてはいけないこと。

この世界とは別に、自分という一つの世界が既にきみの拳の中にあるということ。

 

 

「きっと 、人の手が届かない領域は案外広いんだよ 」いう姿勢は諦観に映るかもしれない。実際、自分自身のその一面はすごく冷めている捉え方をしているなとも思う。

 

そういう人を暫し『傍観者』と言う。

 

自分の世界は大きな世界の中にあると思っていて、そこに押しつぶされるくらいなら感情を捨てて宇宙からこの世界を眺めていようと、諦観と傍観をきめこむ。

確かにそれは傍観者であるし、まだ幼かった頃の僕はそちら側だったと思う。

 

でも、この物語が示す『傍観』とはそうではないと思う。

    

『傍観』の姿勢を覆してまでも「世界」の傍でまっすぐ立っていたいと思うものに僕は出会えた。

寄りかかるのでもなく、まっすぐに。

 

世界の方はあまり僕のことを考えていないかもしれないけれど。

 

『傍観者』って書き下すと「傍らに立って観ていたい者」で、冒頭に提示されている世界と自分との関わり方が指し示しているのは、自分が『傍観者』で在りたいモノとの関わり方のコトなんじゃないだろうか。

 

そんな喜びを感じるお隣の世界に対して責任を果たそうという気持ちが生まれると、人生に対して前向きになっていく。

 

出来事は自分が自分の世界の中でその質に向かって自分の実存を問いかけることでしかやってこない。そうやって、世界との間に無数のやり取り、呼吸を毎瞬間することで自分という世界の境界線がようやく形成されていく。

 

そんな風に二つの世界を調和させていくことにより、誰かが作った規則やルールによって既に完成されているものではなく、その場限りで生まれつつあるものを自分の世界に作っていく。

 

そうすると、自分の中に爆発的なエネルギーが生まれ、その推進力は先に向かう僕を押し出してくれる。

 

そうやって自分という世界は身近な、けれど遠くにあるものの力を借りて外の世界よりはるかに大きなものにすることができる。

 

 

星が手の届かない領域であること、それは優しさだ。

星が手の届かない領域だからこそ、一歩の距離をおいて世界との調和を図ることができる。

 

ああ、だから距離を詰められる歌や態度にどうしたらいいのかわからず立ち尽くしてしまうのかもしれないね。

 

変わらずまっすぐに、寄りかかってくることもなく、世界にはそこに立っていてほしい。

 


この世界がきみのために存在すると思ってはいけない 。世界はきみを入れる容器ではない 。

 世界ときみは 、二本の木が並んで立つように 、どちらも寄りかかることなく 、それぞれまっすぐに立っている 。

 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている 。それを喜んでいる 。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない 。

 

 でも 、外に立つ世界とは別に 、きみの中にも 、一つの世界がある 。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる 。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる 。

 大事なのは 、山脈や 、人や 、染色工場や 、セミ時雨などからなる外の世界と 、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること 、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ 。

 たとえば 、星を見るとかして 。

 

 二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると 、毎日を過すのはずっと楽になる 。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる 。

 水の味がわかり 、人を怒らせることが少なくなる 。星を正しく見るのはむずかしいが 、上手になればそれだけの効果があがるだろう 。

 星ではなく 、せせらぎや 、セミ時雨でもいいのだけれども 。

(池澤夏樹「スティル・ライフ」中央公論社 1991年 )


そんな風に、たとえば、星を見るとかして「令和」からその先へ続いてく世界と関わっていく所存 on the earth.

 

令和 0話。

こんなオチねえわ。

 

 

平成が終わる。

この帯を夜空に放って、一緒に行かうねカムパネルラ。

 

あゝあの白いそらの帯がみんな星だといふぞ。