TrySail 「誰が為に愛は鳴る」/「ひだまりの場所」に鳴る気持ちについて



21年6月9日にリリースされた、TrySailさんの12枚目のシングル「誰が為に愛は鳴る / ひだまりの場所」を聴いて、今見えてるコトについて。

 

 

いや、なんか、こう、困ってる。

 

「誰が為に愛は鳴る」、どう自分に落とし込めばいいのか分からなくて、困っている。

 

ただこう、「かっこいい!」っていう分かりやすい感想に濾過してもいいんだろうけれどさ。

 

いやでも、日々生きていく中で、意味のあることだけ求められて、分かりやすいことだけを言えと言われ、「わかりやすい言葉」に自分を押し込んでいくのだけれど、音楽ってそこから溢れたものを拾い集めてできたものだと思うんですよね。

 

だから、ちょっと均一的な言葉では妥協したくなくて、どうこの聴きながら世界を泳げばいんだろうと悩んだので、言葉を尽くしてみようという試みです。

 

そして、それなら、今のうちに最初の衝撃を可視化しておけばもっと広く公演中に見えるかなと、お弁当箱に詰めてみるのです。


誰が為に愛は鳴る

「誰が為に愛は鳴る」

 

アーネスト・ヘミングウェイの小説『誰が為に鐘は鳴る』を彷彿させるというか、そこから発想を展開したタイトルなのですかね。

 

そこを切り口に考えてみても面白いかなと思ったのですが、ここはもう1つ深くに入る試みをしてみようと思います。

 

ヘミングウェイの著作『誰が為に鐘は鳴る』のタイトルには実は元ネタがあるのです。

 

「誰がために鐘は鳴る」という言葉自体は、イギリスの詩人、ジョン・ダンが『瞑想録 17』の中で用いた言葉を引用しています。

 

 

小説のエピグラフにはジョン・ダンの詩が丸々引用されていまして、ちょっとご紹介。

 

----

なんぴとも一島嶼にてはあらず

なんぴともみずからにして全きはなし

ひとはみな大陸の一塊

本土のひとひら そのひとひらの土塊を

波のきたりて洗い行けば

洗われしだけ欧州の土の失せるは

さながらに岬の失せるなり

汝が友だちや汝みずからの荘園の失せるなり

なんぴとのみまかりゆくもこれに似て

みずからを殺(そ)ぐにひとし

そはわれもまた人類の一部なれば

ゆえに問うなかれ

誰がために鐘は鳴るやと

そは汝がために鳴るなれば

 

<超意訳>

何人も孤立した島ではない。

いかなる人も大陸の一片であり、全体の一部である。

一塊の土くれが海へ洗い流されてもヨーロッパがもとの姿を失わないように、

あなたの友人あるいはあなた自身が洗い流されたとしても、

それが無に帰するわけではない。

だが、いかなる人の死も、私の一部を失った気にさせる。

なぜなら私は人類の一員なのだから。

それ故に私はあなたがたに言いたいのだ。

あえて知ろうとするには及ばない、誰がために鐘は鳴るのかと。

それはあなた自身のためにも鳴っているのだから。

(他人を弔うための鐘が、静かに鳴る。

いまやそれは、私に、「汝ら死すべし(= だれもが必ず死ぬのである)」と告げるのだ。)

----

 

「誰が為に鐘は鳴る」、この小説は1930年代のスペインの内戦が舞台になっています。

 

当時のスペインはファシストに傾倒した軍が独裁体制を執っており、それに反抗する共和派の組織(ゲリラ)があるという状況でした。

 

 

物語の主人公はロバート・ジョーダンというアメリカ人青年。

 

スペインの人々を独裁政権から救うため、ロバートは自分の理念を信じ行動するのだけれど、やっていることは結果的に誰かを傷つけ、殺してしまうことでもあるわけです。

 

同じゲリラのメンバーでもあり恋仲となったマリアと、2人の素晴らしい未来について語りますが、頭の片隅にはいつ自分が死ぬかも知れないという最悪の未来も考えていたりもします。

 

ただの恋愛時代史小説ではなく、実は”生きるとは何か”を問いかけるような、重く、深いテーマを持った小説なのです。

 

 

ヘミングウェイ自身も、1930年代には人民戦線政府側としてスペイン内戦にも積極的に関わっており、この小説は彼自身が「書かざるをえないもの」だったとも思えるのですが。

 

ヘミングウェイが小説の中で書かざるをえなかったもの。

曲の感想としては蛇足になりそうだけれど、何か立ち返って考えるかもしれないのでメモしておく。

 

それはダンの詩に描かれていることでもあるのだけれど、我々は小さな島々に分かれ生きているのだけれど、同じ地球という星に共に生きているということ。

人間という種の塊として共に生きているのだということ。

 

だから、死者を知らせる鐘が聴こえても誰の死を知らせているのか尋ねてはいけない。

それはつまり、自分自身のために鳴っているのだから。

 

 

沢山の人が死んで弔いの鐘が鳴っているが、それは見ず知らずの他人の死ではない。

お前の友、いやお前自身の弔いのために鳴っているのだ。

だから鐘の音を無視することはできない。

自分は同じ人類の仲間として、その人たちの死を悼みたい。

 

ダンの詩は、死んでいった人たちへの心からの哀悼と連帯を、鐘の音の中に聴きとろうとしているのですよね。

 

ヘミングウェイはこの詩を用い作品を通して、自分本位に行動するのではなく、もう少し客観的に捉えて他人にもっと関心を持ち、もっと大きなもののために行動しようということを描いているのだと思います。

 

以上です。

 

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。

これからどうやって、感想を広げていこうか。


んー。

 

現在放送中のアニメ、『SDガンダムワールド ヒーローズ』のオープニング曲となっているこの曲。

 

アニメは本作から追っかけ始めたのだけれど、如何せん前史である『SDガンダムワールド 三国創傑伝』はまだ見れていないので、あまり併走して語れる部分は無いのだよなあ。多分、きっちりこの物語の世界観を反映した曲だと思うんですけれど(今放送中のアニメや、本編中に出てくる回想を見る限り)

 

 

んー。

 

 

愛に生きる人、という曲なのかな。

意志を持って自分を革めながら戦い抜く人がいて、その炉を燃やすのが「愛」みたいな。

 

 

水たまりに飛び込む園児みたいにネタバレを踏んでいくけれど、ヘミングウェイ作『誰が為に鐘は鳴る』のラストを思い出させる曲だなあと思っています。

 

 

戦地で負傷したロバートは自らの役目を悟り、マリアと別れ「しんがり」として死地に残るのだけれど、彼がその行動を取った故はスペインの為でもなく、祖国アメリカの為でもなく、ただマリアのことを考えてその決断をするのです。

 

そういう「愛の為に生き抜く」という点では、タイトルが想起させるものと歌詞の世界観を想起させるところではありますよね。

 

歌詞に描かれる世界観とか、歌っている想いの根幹は分別をつけられるのだけれど、「タイトル」があまりピンときていないんですよね。

 

「なんで、このタイトルなんだろう。」

 

この問いを始めたのが19時で、今24時。

 

んー。


なんでか、タイトルがピンと来ないんですよ。

 

曲的には「誰の為に愛は鳴る(、それは私とあなたの為だろ?)」みたいな曲のように感じられるんですけれど。

 

でも、どうしても僕はジョン・ダンの詩で解釈したくて、「誰の為に愛は鳴る(、それはまたお前の為でもあるのだ)」で解釈したいんですよね。

 

戦いの最中愛の歌が鳴っているが、それは見ず知らずの他人の為ではない。

お前の友、いやお前自身の為に鳴っているのだ。

 

という方向に持っていきたい。

 

んー。

 

 

「んー」してから60年が経った。

誰もいない区役所では山積みの証明書が執行していき、僕の跡地は更地となった。

孫たちは「水族館が立つといいね」と笑った。

 

 

やっぱ、「誰かの為に愛は鳴る(、それはまたお前の為でもあるのだ)」で波長が合うなって。

 

 

あー、でもちょっと違うかな。

 

「誰の為に愛は鳴る(、それはまた君の為でもあるのだ)」が、僕が想起するこの曲の主人公たちにとっては真実なのかなと思います。


「誰かの為に愛を鳴らす」

 

その行動を起こす主体は、孤独を厭わずに意志を貫き戦い抜く人。

なぜこの人が何のために、不意に涙を零しながらも嘲笑されながらも自分を革め戦い抜くのか。

 

その贄こそ、『誰かへの愛』なんじゃなかろうか。

彼がそうやって行動をする時に鳴る呻き声こそ、『愛』なんじゃなかろうか。

 

この曲で鳴っている愛は、誰かへの、その人にとって具体的な対象である、誰かへの愛。

 

「誰かへの愛」だから、それは彼にとっては「愛」ではないんですよ。

 

それは、彼自身が具体的な対象である誰かへ向けて差し伸べた手だから。

誰も彼には、その手を差し伸べていないから。

 

でも、愛の本質、愛に宿される意味ってそうではないと思うのですよ。

 

  • 「愛は、愛している人にだけある。(『愛の断層・日々の断層』/ジンメル)」
  • 「愛というものは、愛されることによりも、むしろ愛することに存する。(『二コマコス倫理学(下)』/アリストテレス)」

 

誰かを愛することが、『愛』なんですよ。

 

大人になったので実感を伴って発言ができるのですが、誰かを愛しているときって、めちゃくちゃ多幸感あるじゃないですか。

 

そして、その多幸感から自分自身も愛せるようになる。

 

誰かを愛している時、僕らはその愛の音を聴いている。

なんだか分からないけれど、胸の奥の柔らかいものが、どくんどくんと鳴っている。

 

 

「誰かの為に愛を鳴らす」

 

その主体は、孤独を厭わずに意志を貫き戦い抜く人。

なぜこの人が何のために、不意に涙を零しながらも嘲笑されながらも自分を革め戦い抜くのか。

 

その贄こそ、『誰かへの愛』なんじゃなかろうか。

彼がそうやって行動をする時に鳴る音こそ、『愛』なんじゃなかろうか。

 

この曲で鳴っている愛は、誰かへの、その人にとって具体的な対象である、誰かへの愛。

 

そしてその時に聴こえる愛の音は、君の為に鳴っている音でもあり、同時に、君はその愛の中に生きているのです。


一気にこの曲との波長の親和性が上がってきた。

 

うんうん、そうねぇ。

愛しているモノのためだったら頑張れるし、その時、自分にそういう対象がいることの幸せを感じながら、確かに「愛」の中に生きていることを感じるよね。

 

んー。

 

確かに、外からこの世界を悪意を持って揶揄されることもあって、その度に僕はたんぽぽみたいに「へにゃ」ってなっちゃうんだけれど、こういう強さを持ちたいなあ。

 

 

強くなりたいので、強そうなMVを観ます。



-------

マイクスタンドだ!!!!待ってた!!!

あまみやさんのこの持ち方、ふぇち

とらわれてる?

└なにに?

いまのなつかわさんのマイクスタンドもちかえすき

マイクスタンド捌きwwww

45度

フレディーじゃん

1サビバラバラの立ち位置(違う場所⇒精神的

 

2サビ以降「同じ夢を〜」立ち位置横並び(愛が意味を宿したあと?⇒宿したものは?

---

 

マイクスタンド、好きなんですよねー。

 

スフィアさんの楽曲に『REALOVE:REALIFE』っていう曲があって、あの曲でもマイクスタンドが使われているのですが、僕はそれがとても美味しかったので、いつかTrySailさんの方でも、そういうシーンが観たいなあと思っておったのです。

 

マイクスタンド、いいよね。

ライブで、みたいよね。

 

特に雨宮さんには、もう好き放題マイクスタンドで遊んでほしいなあという気持ちがあるのですが、相手キャッチャーにバレるわけにはいかないのでポーカーフェイスを心がけています。

 

いいやねぇ。

絶対ライブで聴いたら、体ガクンガクンその場でいわせて、音楽に乗せられちゃうだろなあ。

 

ライブ、たのしみ(´×`)


ひだまりの場所

ひぃ。

 

なんだろうなあ、こう

 

お三方自身を想ったり

お三方がくれたモノを想ったり

歩んできた日々とか

たくさんの泣き笑いできる思い出とか

お陰で出会えた友人たちとか

 

そのひとつひとつの情景に、叙情的に想いを馳せた時に鳴る気持ちを歌にしたら、こういう歌になるんだろうなって、思うよ。

 

 

夕暮れ顔を出す細い月

どこか寂しそうに 僕を見下ろしてた

 

 

なんかこう、わかるなあって気持ちがあって、ライブの終盤、ステージ上の姿がそう見えることってあるんですよね。

 

「きらきら」っていうフレーズは、夕暮れに照らされる水面を想起させて、美しい情景を脳内のフォトフレームに収めてくれますね。

 

なんだろうなあ、こう

 

 

 

深い井戸の底に机を置いて小説を書いているような、悲しいことを振り切りたくて走り続けてきたような、そんな時をやり過ごすように生きてきたような気もするのだけれど、それだけではなくて、確かにこれだけ穏やかで優しい日々を、僕は流れてきたのだよなあ。

 

お三方自身を想ったり

お三方がくれたモノを想ったり

歩んできた日々とか

たくさんの泣き笑いできる思い出とか

お陰で出会えた友人たちとか

 

かけがえのない時を過ごしていたんだな。

 

僕には、帰る場所がいっぱいあるなあ。

 

これだけ幸せでも、いいじゃない。

だって、愛は愛で、愛だから。

 

 

あなたたちがそうしてくれたように、

この愛が、あなたたちの心の一等地でも鳴っていますように。

 

幸せくれてありがとう。

ずっとこれからもよろしくね。