「understand」の和訳をunderstandしようとするブログ


2020年6月1日(月曜日)午前3時3分、少年がぷるぷる震えながら身体を揺するので起きてトイレに連れて行ってやった。

 

この少年、先月末Amaz〇onから届いた抱き枕を圧縮袋から出すと既に抱きついていた少年なのだが、未だに口を開いた試しがない。

 

しかし、もう10日ほど「7」の字を左右反転させた抱き枕(別に向きを変えれば普通に「7」である)を左右から抱き合って眠っていたら、なんとなしに少年が伝えようとせんことが解るようになってきた。

 

今も左側から「7」を左右反転させた形状の抱き枕の棒部分を左側から抱きしめ眠っているが、少年は寝息を全く立てない。

お陰で小生は抱き枕が来てから快眠が続いているのだが、ここまで寝息がないと「死んでるんじゃないか?」と心配してしまうほどである。


なんか深夜テンションで乙一先生の怪作的日記『小生物語』をオマージュしてしまったが、全て事実である。安心してほしい。

 

昔ライブの感想ブログで、「青春18きっぷを使い、胴着のまま走って合宿所に向かう男子柔道部員の背中に乗って現地入りした」と書いたことがある。あれは嘘である。


深夜なので騒音を立てないように眠れる獅子も眠ったままのソフトタッチでブログを書く。

俺のお陰で眠れる獅子と恐れられた清国は目を覚まさずイギリスはアヘン戦争に勝利することができたのだ。えっへん。

 

清のみなさま、すんましん。


ひどい。

 

ブログを書く。

 

ブログを書くときって、基本的に自分の中にある感覚を言語化していく作業だから自然と自分との対話になっていって。

だから自ずと文体も「で・ある」調から「だっちゃ」調に変わっていくのだっちゃ。

 

ダーリン、うちラムだっちゃ。


初めて読んだ漫画が「うる星やつら」だっちゃはずだっちゃが、忘れもせぬ小学2年生の頃、掃除箱に入って「暗いよ!狭いよ!怖いよ!」と怯え叫ぶ遊びをしていたが、誰も反応してくれなかった。

 

当然だっちゃ。

 

小学3年生の遊びといえば、ちょうど野球をはじめたので休み時間は教室の後ろでドアに向かってスライディングの練習をしていた。

ドアに滑り込むと、ほら、あいつらガッチリ固定されているから、すくっと立ち上がることができる。あれが結構快感だっちゃよな。

 

幼稚園生の頃は石ころ食ってて訳わからん子どもだったけれど、ここまででかなり成長したことが伺える。涙ちょちょぎれるハイオク。


ハイオクといえば、廃屋である。特にネタは無い。


「understand」について、感覚が変わりつつあるのでアウトプットしてみようかなと思います。

 

日本語訳だと「理解する」という単語ですよね。

 

以前、ブログにこんなことを書いたことがあって。

 

------------

(...)

話が逸れるけれど、自分だけの哲学なんて誰しも持っている。

当然相手にもその人が生きてきた時間や環境の中で形成されてきた哲学があって、その点において自分の哲学(や価値観)が相手に伝わって理解してもらうことは100%ないのだ。

 

理解されることなんてないし、理解するなんて烏滸がましい。

 

理解するは「understand」だけれど、僕が育てた木の下に立つことができるのは僕だけなのだ。

 

他人が入ってきたら、「入ってくるんじゃないよ!」と思うし「自分の木を育てなさいよ」と思う。

とても立派な木を見ると、自分もそんな風に枝葉を広げ不意の風に葉を揺らしたいと思う。

 

それが「存在を考える」ということじゃないかな。

 

 

相手を理解するうえで、「その人の思考の下にちゃんと立って考えること」はもちろん大事な事だと思う。

 

うーん。

 

でも『相手を理解したい』とは思わないんだよな。

 

理解しきれるはずがない、という感覚が近いのかもしれないけれど。

 

理解されようとすると、必ずそこで相手との間に誤差/ノイズが生じる。

 

ぼくはそれがたまらなくしんどい。

 

その人が育てた木の下に立とうとすると、必然的にその人のスペースは逆の端へ寄るわけで、そのせいで雨が頬を流れることもあるかもしれない。

 

だから理解したいとは思わないし、理解してほしいなんて思わないのだよな。

 

ただ単に、そこに居てくれて、そこに在ることができたらいいなって思う。

 

理解するというよりは、全部を肯定したい。

 

綺麗な部分も、社会に対して冷淡になった瞬間も。

 

何かをバカにするような悪い感情も、自己嫌悪も不謹慎な思考も、全部。

 

理解するってことは、全部を赦して肯定することなんじゃなかろうか。

街路樹みたいに、そういう風に綺麗に並べていたらいいのになって思う。

 

葬儀が終わったらその木の下に埋めてくれ。

  

 

理想論。

 

 

にゃーん。

 

 

 

理解するより、される側の方が大変だよなあ。

 

でも、自分の木が小さい木だったら相手は雨に濡れちゃうから、ちゃんと太陽目指して枝を伸ばし葉を茂らせ、ときに実ったりんごをおやつに出してあげることが、理解される・・・「理解してくれ」と思う側には必要なことなんじゃないかな。

 

僕は伝わる言葉より自分の言葉を優先したい人だから、冬の街路樹みたいに葉は枯れ落ちていて、雨宿りしようとする人は雨に濡れるだけなんだけれど(笑)

 

 

りんごうめえよな!食ったけれど、イヴがいねえ!咳をしてもひとり。南無アダム陀仏。

(...)

 

『死ぬことについて考える』

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腐ったようなギャグは触れずに廃屋に突っ込んでおく。

 

4月末までかな、そこまではずっとこんな感覚で「理解する/理解される」という概念を考えていて。

纏めると、

  • 「understand(理解する)」=『under(下に)』+『stand(自分の足で立つ)』
  • 『相手を理解する』ということは「その人の思考の下にちゃんと立って考えること」だよね

 

  • でも、相手を『理解したい』と思わないんだよなあ(『理解しきれるはずがない』、という感覚が近いのかも)
  • 誰かに『理解されようとする』と、その人に『理解してもらう』ためにその人だけが生きて見てきた景色に沿った摺り合わせが起こる。それって源泉と同じなの?

 

  • 【これが嫌!】『理解しよう』と相手の木の下に立つと、相手はその分端に寄ったり最悪追い出すことになり、雨が頬をつたうかもしれない

「理解した!」、でも相手は必ずどこか相手に押しつけてる部分があり「わかってもらえない」と苦しませている部分があるんじゃないか

(ここは結構主観的な怯えなんだけれど)

  • なんかそれが嫌だから、あまり積極的に『人を理解したい』と思えない

 

  • 誰かに木の下を譲って雨に濡れるんじゃなく、ただそこに、在りたいように立って居ていいんだよ、って言いたい
  • 『理解する』より、↑↑の様に「それでいいんだよ」と肯定したい

 

  • 理解するってことは、全部を赦して肯定することなんじゃなかろうか(モラルや人権、社会生活や公共の福祉を脅かさない範囲で、「負の感情も、『あっちゃいけない感情』ではなく、その存在があったことは認めてあげてほしい」)

 

  • 『理解したい』ほど大切な人の、その人だけの立ち位置を脅かさず、街路樹みたいに、そういう風に綺麗に並べていたらいいのになって思う

 

  • でも、営み的に『理解する』はやっぱり「その人の思考の下にちゃんと立って考えること」

 

  • 自分の木が小さい木だったら『理解しようとしてくれる』相手は雨に濡れちゃうから、ちゃんと太陽目指して枝を伸ばし葉を茂らせ、ときに実ったりんごをお土産に出してあげれるような、そんな風に木を育てていたい

 

  • りんごはうまい。

 


んー。

整理してみたけれど、結局のところ、「言い訳」なんだよな。

 

解った、つもりになることが怖くて。

 

押しつけてるんじゃないか、ということが怖くて、じゃないなあ、ここ。

なんだろう、うーん。

 

ふぁp@おふぁぽふぁsっp

 

嫌われたくない、のだろうなあ。

 

ちょっとここ言語化難しいな。


「言い訳」は置いておいて。

 

『人を理解する』ときにそういう思考アプローチで在りたい、という部分は実は変わってなくて。

 

なんか「何言いたいの?」と見えなくなってきたからブログ書こうと思った「動機」を書くと、「understand」の和訳って「理解する」じゃなくて「共感する」の方が原義に近くない?って思えて。

 

んー、でも、じゃあ原義ってなんなんだよってことにもなるのか?

 

僕の中で原義って『under(下に)』+『stand(自分の足で立つ)』なんだけれど、それって「太陽は東から昇る」みたいに、不変の事実、ではないもんな。

 

んー。

 

あれだ、「僕だけの哲学」、なのかな。

 

「understand」の和訳って「理解する」じゃなくて「共感する」の方が僕だけの哲学に近い、気がする。

 

というのが、今抱いてる感覚の言語化に近いのか。


「抱いてる」とタイピングし変換したつもりが、画面には「頂いてる」と表示されていた。

 

なんか、人生って感じがする。

 

「少年よ大志を抱け」って言うけれど、大志頂いてばかりだなあ。

 

 

大志、なのか?

 

...うじゃのは考えることをやめた。


「understand」の和訳って「理解する」じゃなくて「共感する」の方が僕だけの哲学に近い、気がする、と感覚が変わったキッカケの話を少しする。

 

先日、ちゃんと(価値観を渡し合う方の)話をできるような間柄になってからもうすぐ1年くらい立つ人に、通話で「実はうじゃのさんに、ずっと伝えたかったことがあるんですよ」と言われて。

 

その人も、雨宮天さんを応援している方だったから、てっきり青い方の話かと思っていたんですけれど。

 

そしたら、

 

「昔、うじゃのさん、『死ぬことについて考える』ってブログ書いてたじゃないですか。あのブログ、めちゃめちゃ好きなんですよね。」

 

みたいなことを言われたのですよ。

 

「あそこに書いてあったこと、僕も感じていたことだったんで、『わかるわー』って読んでて思いました」

 

と、嬉しいことを言ってくれたのです。

 


『死ぬことについて考える』

 

このブログ記事は別に「鬱だ、死にたい」というアプローチのブログではなくて、『死生観から日常をどう生み出すか』、みたいなブログなんですけれど。

 

僕だけの哲学は興味があればリンク先を覗いてもらうとして、肝心なところは、そこに書いた内容って、『僕が「なんか周りの人とは考え方がちがう、こんな思考いけないのかな?」とコンプレックスすら抱きながらもずっと持ち続けていた感覚』について書き殴ったものだったんですよね。

 

コンプレックスだった、というところが味噌スープで、具材は豆腐とワカメなんですよね。

彼がくれた言葉は、ふと気づかせてくれたものがあって。ライス(親指を立てる、1マス進む)

 


【STOP!!】

イベントマス


あまりに、くだらないギャグだったの副音声でお届けします。

おにぎり包んでお詫び申し上げます。

-------------

 

『死ぬことについて考える』

 

このブログ記事は別に「鬱だ、死にたい」というアプローチのブログではなくて、『死生観から日常をどう生み出すか』、みたいなブログなんですけれど。

 

僕だけの哲学は興味があればリンク先を覗いてもらうとして、肝心なところは、そこに書いた内容って、『僕が「なんか周りの人とは考え方がちがう、こんな思考いけないのかな?」とコンプレックスすら抱きながらもずっと持ち続けていた感覚』について書き殴ったものだったんですよね。

 

コンプレックスだった、というところが味噌で。

 

先に「understand」の思考プロセスのところで書いたことと重複するんですけれど、僕はその考え方は公に在っちゃいけないものだと思ってて。異常なんだ、とすら思ってて。

 

だから、彼が『わかりますー』って言ってくれたことで、なんだか、嬉しかったんだよなあ。


でも、「わかる」って言ってもらって嬉しかったんですけれど、僕は『解ってくれた!』とは思っていなくて。


「understand」の和訳って「理解する」じゃなくて「共感する」の方が僕だけの哲学に近い、気がする。

 

ちがう、これじゃない。

 

筋書き的に、

 

彼に「共感してもらえた」と思った

⇒プロセス的には『understand』のはずだけれど、到達点は「共感してもらえた」

⇒「understand」の和訳って「共感する」では?

 

にもっていくつもりだったんですけれど、これ、ちがうわ。

 

 

「understand」の和訳って

「解る」じゃなくて「分かる」だと思います。


------------

(...)

話が逸れるけれど、自分だけの哲学なんて誰しも持っている。

当然相手にもその人が生きてきた時間や環境の中で形成されてきた哲学があって、その点において自分の哲学(や価値観)が相手に伝わって理解してもらうことは100%ないのだ。

『死ぬことについて考える』

--------

 

たしかに、『理解する』なんて無理なんですよ。

 

だって、見てきた景色/出会ってきた人たち/手に入れてきた価値観...総合して生きてきた道ってひとそれぞれじゃないですか。

 

自分がそうであったように、当然相手にもその人が生きてきた時間や環境の中で形成されてきたその人だけの交換不可能でユニークな哲学や価値観があって。

 

だから、全てを理解することなんてできない。

 

じゃあ、『理解する』って営みは、何なのか。

『理解する』ことはできないのか。

 

 

『理解する』ことはできない、と僕はやっぱり思います。

でも、『理解しようとする』はできると思うのです。

 

でもでも、『理解しようとする』は試みだけで終わってしまい、『理解する』に行き着くことができない。

 

じゃあ、どうすればいいのか。

そもそも、『理解しようとする』が行き着く先って『理解する』じゃないんですよ。

 

『分かる』、なんです。

 

■『理解しようとする』⇒『分かる』≓『understand』


分かる:分別をつける

 

分別といえば、そう、「sense」という英単語です。

 

「センスがある。」「センスがない。」ってよく言ったり言われたりしますけれど、みなさんは『センス』についてどんなセンスをお持ちでしょうか。

 

僕は昔からそんなにうまく物事をこなせる様な人間ではなかったので、「センスねぇな!」と何度も揶揄されましたし、「センスないなぁ・・・。」と落ち込んだものです。

 

でもね、その使い方、僕は違うと思うんですよ。

 

 

 

「sense」はいろんな使い方をされる名詞ですが、ネイティブの使い分けを日本語的に纏めると以下の通りになります。

 

【sense】

①認識

②感覚

③意味

④分別

 

単語としてはここまでで良いんですけれど、概念的なところだともう少し独自解釈を加えます。

 

①   ② ③ ④(それぞれがセンスの意味)

        ではなくて

① → ② → ③ → ④(この一連の流れが『センス』

  だと思うんですよ。

 

何か物/者を認識して・・・①

感覚的に理解して・・・②

その感覚に自分なりの意味を与える・・・③

意味から自分なりに分別をつけ動く・・・④

 

 

上述した「使い方違うと思う」の含意、分かりますかね?

 

センスって、『先天的』じゃなくて『後天的』なんですよ。

それでいて出会いによって変わってくもの(≓価値観)で、積み重なっていくものなんじゃないかなって思います。

 

※誤用される『センス』はtalent(才能)かと

 

 

まあ、実はそんなブログ(お腹がすいたのでうどん娘が欲しい。)を昔に書いてまして。

そのブリコラージュです。

 

 

もうちょっと進めると、この『sense』の、

 

何か物/者を認識して・・・①

感覚的に理解して・・・②

その感覚に自分なりの意味を与える・・・③

意味から自分なりに分別をつけ動く・・・④

 

という流れ。

行き着く先が『分別』ですよね。

 

つまり、この流れを動詞化すると『分かる』なんですよ。

 

よく「分かる」って使いますけれど、思考プロセスを整理すると、ちゃんと1つ1つ抑えていますよね。

 

そして、この流れこそ、僕は『理解しようとする』営みと共通する部分があると思うのです。

 


------------

(...)

話が逸れるけれど、自分だけの哲学なんて誰しも持っている。

当然相手にもその人が生きてきた時間や環境の中で形成されてきた哲学があって、その点において自分の哲学(や価値観)が相手に伝わって理解してもらうことは100%ないのだ。

『死ぬことについて考える』

--------

 

たしかに、『理解する』なんて無理なんですよ。

 

だって、見てきた景色/出会ってきた人たち/手に入れてきた価値観...総合して生きてきた道ってひとそれぞれじゃないですか。

 

自分がそうであったように、当然相手にもその人が生きてきた時間や環境の中で形成されてきたその人だけの交換不可能でユニークな哲学や価値観があって。

 

だから、全てを理解することなんてできない。

 

じゃあ、『理解する』って営みは、何なのか。

『理解する』ことはできないのか。

 

 

『理解する』ことはできない、と僕はやっぱり思います。

でも、『理解しようとする』はできると思うのです。

 

■------------------------

相手が得てきた物(経験や価値観)を認識して・・・①

感覚的に(自分が得てきた経験や価値観に置き換え)理解して・・・②

その感覚に自分なりの意味(『こういうことかな?』)を与える・・・③

意味から自分なりに分別をつけ動く(僕の場合は「肯定する」)・・・④

--------------------------■

 

〇『解る(理解する)』

相手が考えているモノと全く一致する認識

相手がこちらへ期待した通りの結果、相手のこちらへの願望

相手側からの場合のみ起きるもの(こちらが抱くものではない)

 

〇『分かる』

自分で分別をつけ把握している認識

→こちら側が「こうじゃないかな?」と思っているもの(齟齬の可能性あり

⇒その認識が相手の持っているものとどこまで擦り合わせできているか

 (その認識は自己責任

 

 

思ったんですけれど、よく相手から「わかったか?」って言われるじゃないですか。

そして、「わかりました」って答えますよね。

 

アレって結局、

 

◆上司/親/彼女/先生「解った?」

⇒[自分が持っている認識と全く同じレベルを求めている]

 

◆部下/子/彼氏/生徒「分かりました」

⇒[自分の感覚や認識で分別をつけて「求められているものは」と答えを出す]

 

だなあって思って。

それって、『理解しようとする』とほぼ同義じゃないですか?

仮に立場を逆にして考えてみても同じですよね。

 

んー、厳密に言うと、「数学の答えがわかる」とかなら『解る』って使えそうじゃないですか。

でも、結局解いた本人は『これであってるのかな?』状態なので、『分かる』だと思うんですよ。

 

じゃあ答えを見たら、『解った』じゃん、といえばそうなんですけれど、それは解き方が『分かった』だと思うんですよね。

コンピューターに組み込まれてる計算も、人間が「分かった」結果としての『理解』で。

 

屁理屈っぽくなってきたな...。

こう、確かに「太陽は東から昇る」みたいな『不変の事実』視されているものはありますけれど、アレって結局のところ人間が歴史上とか天文学とかそういう観点を総合して主観的に決めつけているとも言えて、そりゃ「100%」と言う人もいると思いますけれど、本当に?って思っちゃう。

 

 

まあ、屁理屈は置いておいて。

 

別に「understand」の和訳は「理解する」でもいいと思うんです。

ただ、その『理解する』には

 

◆上司/親/彼女/先生「解った?」

⇒[自分が持っている認識と全く同じレベルを求めている]

 

◆部下/子/彼氏/生徒「分かりました」

⇒[自分の感覚や認識で分別をつけて「求められているものは」と答えを出す]

 

これらのアプローチの相違があることを押さえておかなければいけない

 

ということです。

 

んー、仕事とか社会的ポジションを得ると『解る』を求めないといけないんだろうけれど、『人』と付き合っていく上では仮に自分の認識の理解を求めるようなことになった場合、『分かる』を求め擦り合わせできる自分でいたいなあ。

 

そっちのほうがお互い楽な呼吸で居れるよね。


19時30分。

 

深夜にブログを書き始め、徹夜で仕事に行き、なんとか気を張って仕事を全うし帰宅した。

グロい。

 

なんだこのブログと深夜テンションの自分を恨む。


人によく、「わからない」と言われる。

 

ガキだった頃は、解ってもらえないことに拗ねて諦観していた。

今だって、分かってもらえないことに正直苦笑いで諦観している自分がいる。

 

たまには分かってほしいんだけれど(笑)

下手くそだからな、伝えるの(笑)

 

それでも、分かってほしくて「分かりやすい言葉」に自分を均一化させ落とし込んでいくよりは、自分にしかない言葉で自分を分かることができる、自分でいたいな。

それが獣道の入り口、あるいは船頭のいない船着き場だったとしても。


「わからない」、ということに尻込みしないような自分でいたい。

 

わからないから、解ろうとするんじゃなくて。

 

わからないから、分からないことを受け止めて分かろうと歩を進めたい。

 

 

んー。

 

急に雨宮天さんの話になる。

 

 

2014年大晦日のブログに雨宮さんがこんなことを書いている。

(...)

この一年間応援して下さった皆さん、ありがとうございました。

本当にありがとうございました。

私を応援していたことで、もしかすると辛い思いをされたりしたこともあったかもしれませんが、それでも応援して下さってありがとうございました。

よく人から言われる言葉から考えると、皆さんにとっても、私の考えていることや思いが分かり難い時もあったのではないかなと思います。

それでも私で居させて下さりありがとうございます。

『こうだ!』って決めつけないで、『こういうことかな?』とか、『分からない』って思って下さりありがとうございます。

今の自分が決してよいとは自分でも思っていないのですが、それでも私を一人の人間として認めて下さった方が居てくれたから、何とか自分のままでやってこられました。

自分で居させてもらえるってとても幸せなことです。

私は私のままでいながら、ネガティブがくれた短所の自覚を味方に、ちゃんと変わっていけるように頑張ります。

(...)

 

(雨宮天 公式ブログ:2014年大晦日


 

 

僕らはそうやって、向こう岸に居る互いに手を振り「分からない」の関わり合いを続けながら川辺を歩いてきたなあという感覚があって。

 

分からないの呪縛である(笑)

 

でもね。

 

正直、不思議なところなんだけれど、雨宮さんに出会ってから僕は『分からない』『解ってもらえない』が苦じゃなくなってきて、今ではなんだか心地よさすら覚えているんだよな。

 

なんだろうな、好きなんだよな。

あの、かけるべき言葉を探して、腕組みし合う日曜日が。

 

『分からない』ってことを、互いに分かっている、あの安心感。

こんな場所が自分の人生に現われるとは思ってもおらんだっちゃ。

 

 

 

 

『理解する』ことはできないけれど、『分かろうとする努力』は止めたくないなあ。

 

『分かる』にはsenseがいるから、結局の所自分で自分を頑張っていくことが、その道なんだと今は思う。

 

援軍の来ない小さなベッドから抜け出し認識や感覚を磨き、知らぬ間にルールが追加されていく世界に意味を見出して。

小説のように人の心を動かす、音楽のように人の心に残る言葉を探して。

 

 

 

世界はたったひとりでは、意味を見出すことが出来ないようになっている。

 

そんなときに、あなたが世界を分かるための手伝いになりたい。

 

 

あなたを分かることはなかなか出来ないかもしれないけれど、あなたが世界に意味を見出し分かろうとするとき、一緒に意味を見出すことができるような、人間になりたい。

 

あなたの木の下に立って同じ世界を見ることは叶わないけれど、少し後ろから葉を揺らし送り届けた春風の存在にあなたが気付いてくれて、何かを自分の中に見つけてくれるような日が訪れる。

 

そんな鈍行列車で消火活動に行くようなくらい、途轍もない遠く場違いなものかもしれないけれど、願わくば、願わくば願わくば、そんな日が来ることを夢見て、しっかり枝葉を星空に「あれ欲し」と伸ばしていきたいと思う。 

 

 

あなたの木の下に立って同じ世界を見ることは叶わないけれど、少し後ろからまっすぐに立つあなたを眺めていたい。

 

そのために、僕もまっすぐ立とうと思う。

 

どちらも寄りかかることなく 、それぞれまっすぐに立つ。

 

互いを分かることはできないけれど、互いがまっすぐ立っていることが分かる世界で。

 

 

 

疲れた。

長々と話していたらいつの間にか三遊間の距離が急接近していて、サードとショートはもう手でも繋ぐんじゃないかと思っているうちに、ああ、もう、舌まで入っている。

 

ゲームセット。