「わからない」はなし


わからないんだよなあについて。

TrySailのライブで『whiz』に、不意に起きた風に巻き上げられながら見えた井戸底にあった感情について。

 

 

"わからない"でいいことの話じゃなくて、答えなんてきっとないのだろうけれど、わかりたいのだけれど"わからない"ことについて。

 

それは感情だったり、存在だったり関係だったり。

 

何か大切なものを見つけたような気がして、自分の人生に意味があることをもらった気がして、言葉を尽くして"その時の感じ"を「意味」に置き換えようとするのだけれど、そうすればするほど言葉が身体を離れていくような、言葉が上滑りしていくような、真っ白なノートが机の上で黙って待っているみたいな、そういう感じ。

 

んー、扉を開けっ放しにして待ってるんだけれど言葉が訪ねてこないみたいな。

 

スープの底に沈んだモツを探して掬っていくみたいに、自分を救っていくような。

 

 

はいはい、上滑り上滑り(日高屋のモツ野菜ラーメンが好き)。

 

 

 

仲間とわいわい車で走ったり。

夕日を眺めたり。

便箋に文字を書いたり。

 

そんな時に感じたことを

「ドライブ」

「夕焼け」

「手紙」

と、"その時の感じ"を意味に置き換えていくように、意味がすべてであるならば、僕たちは、この世界のどんなことでもわかることができるんじゃないかな。

 

でも、どんなに頑張ってもいつまでもよくわからないものだから、仲間とわいわい車で走ったり、夕日を眺めたり、便箋に文字を書いたり、そんな風に不意にまきあがる風を感じるように、それが驚きに満ちているのではないかなと思ったりもするのです。

 

世界は「意味」だけではできていなくて。

 

だから簡単に理解はできなくて、理解できないからこそ、それを味わうことを簡単にはやめられない。

そうやって誰もが探って味わうことができるのが、この世界の長所であり、また厄介なところではないでしょうか。

 

意味ではないから、やめられない。

 

だから感情とか、存在とか関係に名前を、意味のある名前をつけようとする必要ってなくて。

 

見たものを体に溶かして生きていられたら本望なのかもしれないし、そんな時にこそ、開けっ放しの扉の向こうからやってくるなという実感があるのです。

 

 

世界はあたり前のように在って、既に誰もが味わっていて書き殴られているのだけれど、そんな中でもまだ余白として残っている「わからない」部分があって、それをきちんと味わうためにはいつもと違う"何か"が必要で。

 

それは意味ではないことに気づくことなのかなあと思ったのでした。

 

 

わからないままに、歩いていたいなあ。

 

そんな、誰にも伝わらない、"わからない感じ"のはなし。

 

ただ僕自身がこの自分を内から強く支えているあいまいな感じを「わからないはなし」でお願いしますという僕自身へのはなし。