毒と諦観について~雨宮天「VIPER」/「メリーゴランド」にまつわる所感

2019年7月10日 雨宮天さんの8thシングル「VIPER」が発売された。

今だからこその所感を残しておきたいと思う。

 

◆VIPER

作詞・作曲・編曲:塩野海

 

◆メリーゴーランド

作詞・作曲:鈴木エレカ/JOE

編曲:JOE


「VIPER」の世界観について

最初にフルサイズとして曲に触れたのが現在行われているTrySailのツアー公演、「LAWSON presents TrySail Live Tour 2019 "The TrySail Odyssey"」だったので、ライブで僕の解釈はまずコアが作られていて。

 

ライブで感じた全貌はまた後日談として書くとして、どうやってもそのファーストインプレッションが核心にあるので、まずはライブの情景からイメージを膨らませていきたいと思う。

 

 

イントロで、一瞬青い光に照らされる。

 

またこの曲も青だよねえ。

 

(僕の「青色」への解釈はこのブログで諸所語っているけれど、興味がありましたらこちらを読んでいただきたい:「それでも」について~雨宮天『Song for』)

 

僕の中でもう「青色=理想、鋭く理想へ届こうとする『意志』の色」という認識があって、眼前を埋めたあの身を焦がすような青い光は、まさにその理想なのだと思った。

 

イントロが途切れた刹那、血の赤がほとばしる。

 

照明の演出の話のだけれど、僕はまさにあれを「血」と見た。遠い理想を見つめる目に映る青と、その内で脈々と流れるエネルギッシュな赤。

 

青が「外/自分でないモノ」なら、赤は「内/生命としての自分」だ。

 

曲中は生命として赤が自分の中を脈打ったり、理想に燃えては青が今度は体内を通うのだけれど、ラストにこれが入り乱れ、感情が掻き乱れる。

 

MVはまだ観てないのだけれど、散々ライブでのMCやブログで「フルだと最後にドラマが待っている素敵な曲になっています。」(雨宮天公式ブログ:Odyssey 神戸1日目 TS、あと4日)と、仰っているので、これはもうここで何か主人公の感情や価値観にどんでん返しがあったのだろうと。

 

だから、受け手としてもここで違うモノを見出す必要があって。

 

女スパイ、「VIPER」を描いたこの曲。

 

メロディーだけでもうこのスパイが只者ではない、ということを一瞬で感じさせるのはプロってすごいなあと思えるところで、これが「irodori」(雨宮天 4thシングル)を手がけた塩野海さんと言われると強く頷けて。

 

『背筋を震わせる歌声を聞かせてよ』とか、

 

『ロマンチックに足掻いてみせてよBABY』とか、

 

僕の頭の中でVIPER(=つまりそういう一面としての僕)はとても余裕があって斜に構えてる、というか、世を上から見ている、手の平で転がしている感じがあって。

 

でも、どう聴いても歌詞を読んでもラストにドラマが起きていて、このVIPERが失墜している。そのドラマにどんな価値観を見出そうか。

 

 

 

やっぱり、ラストサビだけ括弧書きで「ちがうそうじゃない。そんなんじゃない。」とあって、ここに何を見出すか、じゃないかなと思うのです。

 

雨宮さんもライブの歌唱ではそこの歌い方を組み替えてきたり、ピアノだけのメロディーに転調して続くフレーズに、声優グランプリさんや声優アニメディアさんの特集記事でも「最後に出てくるアキメネスの花がキーワード」「そこまで自信満々で怖いものなしだったVIPERがそこで弱さを垣間見せる」とお話していて、これは弱さ、つまり僕はこの「ちがうそうじゃない。そんなんじゃない。」は内から、本当の自分から響く声だと思うのですよ。

 

「irodori」とか「Abyss」(雨宮天6thシングル「誓い」CP)的な解釈の持ち出し方が近くて、結局僕はそういう自分との対話系の解釈が好きなんですけれど。

 

僕の頭の中でVIPERって結局「嘘」「偽り」、自分じゃない自分を着飾った存在でしかなくて、冒頭の「シックなスーツに嘘を着飾るVIPER」はスパイとしての彼女の実像であり、彼女という人間としての虚像っていうダブルミーニング、なんじゃないかな。

 

VIPERという自分に対しての「ちがうそうじゃない。そんなんじゃない。」

 

VIPER、毒蛇。

 

 

恐らく「手玉に取る」とか「手の平の上で転がす」という毒牙を持った人間ということで「VIPER」というコードネームなのだろうけれど、「毒を持つ」ということはつまり、その者も自身に毒を体内に持っていて毒に侵されているっていうことでもあるんじゃないかな。

 

生物学的にはきっとメカニズム的に違うんだろうけれど、人生的にはそうな気がする。テキトーか?お子様ランチみたいな我の通しだな。

 

僕はここでVIPERが自分の毒にやられたんだと解釈していて、単純に自分に酔いすぎてその毒に足元すくわれちゃったでも成り立つんだけれど、受け手としてもらった以上そこに何か自分にとって煌いたモノを持ち帰りたくて。

 

「毒」は何か、となると、自分の価値観的にはここは「理想」、じゃないかな。つまり「青」。

 

その「青」はVIPERとしての自分が求める「青」とは異なる「青」で、彼女自身が本来在りたかった青

 

Dメロの

拭っても消えない黒い罪の烙印

遅すぎた光なんて見せないでよ

言わないでよ・・・

 

が、まさにその「毒」で。そうして、ふ、とそれに気づかせられる。

 

ラスサビは青と赤が入り乱れていくのだけれど、そこの解釈としては、例えば炎で考えると青い炎は酸素が充分な「完全燃焼」で赤い炎は逆に酸素が不足している「不完全燃焼」だったりするわけで、余裕のあるVIPERとしての「完全燃焼」と彼女という人間としての「不完全燃焼」の鬩ぎ合い、みたいに見ると面白いのかもしれない。

 

そしてこの曲は青に綴じられるんだけれど、その青がVIPERにとって「どちらの青だったのか」は知る由もなくて。それはリスナーに委ねられるのかな、と。

 

そして永遠に送られてこない暗号、これもまたそのヒントなのかな。

 

なんか、ちょっと「irodori」や「Abyss」に近い解釈になりましたね。そして偶然どちらも塩野さん曲なんですけれど、僕は塩野さんのこういう自分との対話系の曲(僕の解釈ではそうなる)がとても好きです。

 

MV観るぞい。

 


MVについて

 

んー、

 

VIPERはタイピストを撃ったけれど、んー、でも、なんか違和感が残って。

 

歌詞にうたわれている余裕のある表情や想起させるかっこいい姿ってどちらかというとタイピストの方がイメージ通りで、見つかって縛られたりする侵入者のほうには、僕はどうもその姿を感じられないなって。

 

 

 

これひょっとすると、

 

「VIPERがタイピストを始末しに来た構図」

 

じゃなくて

 

「タイピストがVIPERに(自分を)始末され(せ)る構図」

 

だったりするんじゃない? 

 

 

 

仮にそうだったとして、じゃあ、この「侵入者」が誰なのか。

 

 

 

「侵入者」と「歌っている人物」は別人だと思うんですよね。

 

どう見ても侵入者は余裕なさそうだけれど、タイピストはめちゃくちゃ目で殺してくるし声色通りの表情を終始浮かべているんですよ。

 

 

 

だから、僕の中で「VIPER」ってあの「侵入者」じゃなくて、「タイピスト」の方。

 

 

 

そんなVIPERが自分を始末させようとする相手、となると、「本来在った理想の自分」、なんじゃないかな。

 

 

 

ラスサビにVIPERの前に姿を現す「侵入者」。

 

VIPERが偽り綴ってきた「自分」というフィクションを壊しに来た「侵入者」。

 

 

 

それはVIPERが本来在りたかった自分で、その自分に殺される刹那、 VIPERは笑みを浮かべるっていうラスト。

 

 

ちょっと抽象世界になるのだけれど、僕がいちばん大きなケーキをもらえる解釈の仕方はそんな世界観なのかなあ。

 

うわー、そうだとしてもそうじゃないとしてもそこまで考えさせてくれる「VIPER」のMVおもしろい!!

 

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ライダースーツが似合いますねえ、脚が長くてお綺麗だからとても映えていて。

なんかもう、そのままバイクに跨っていてもめちゃくちゃ様になるんでしょうよ。

 

この長さだから考察のし甲斐があって面白いなあと思いつつ、でも「VIPER」だけで1つのドラマ作れそうで面白いですよね。

 

これまでソロライブでダンサーさんを交えた舞台演出にも定評がある雨宮さんのライブですし、ダンサーさん交えてステージ上で表現される景色も見てみたいなあ。

 

タイピスト姿も素敵ですよねえ。あの衣装姿がとても好きで。

優雅なタイピングを披露されていましたけれど、いつかご自慢の高速タイピングもご披露頂きたいな。

 

 

ちなみに、雨宮さんが発売を控えてブログで

このMVを撮影するにあたりタイピストが出てくる映画と女殺し屋の映画を観て勉強してから撮影に臨みました!詳しい人ならこれかな?っていうのが分かるかも…笑」(雨宮天公式ブログ:あと2日) と、仰っていたけれど、僕が浮かんだのは『タイピスト!』というフランス映画でした。

 

タイピストってこういう服というのを僕はここでインプットしていて、タイプライターとのその取り合わせがとてもフェチ的に好きな感じだったので、今回そういう衣装を着ていらして、うん、良いね、と。

 

世界観的に50年~60年代なので「VIPER」のMVを観てからだともっと楽しめると思います。

可愛くてスポ根の面白さがあって素敵な映画なので、アマゾンプライムにあるのでぜひぜひ。


この曲を歌いこなすっていうのは、すごくカッコいいよなあ。

本当に、こう、痺れるというか、カッコいいよなあ。

 

今まで見たことがない表情と声色が出ている曲だなと思えていて。

     

普段、歌手専業の方の楽曲を聴いているとあまり曲の世界観/曲の中で生きる者たちの姿まで見出だすことはあまりなくて、結局は歌詞がダイレクトに自分に刺さるとかそんなカタチで好きになっていくのだけれど。

 

だから雨宮さんがよく用いる『声優として』の歌/曲の主人公を演じるように歌われる歌は、物語の中に人間がいたことを忘れさせなくて、その物語に共感したり傷の在り処を教えられたり体温をもらったりする。

 

前者は言葉に救われることで、後者は物語に救われるみたいなことなんだけれど、物語には起承転結がある分あちこち光射すところがあって、わざわざ傷をつけて不透明にした自分のあちこちを持ち上げて光に当ててみると、いろいろな光が見えるのだ。その光はあちこちに届いて、荒れ果てたあちこちで草木が茂ってきて呼吸が楽になる。

 

そうしてまた酸素を吸っては自分の存在理由を吐き出すのだけれど、地球温暖化によるCO2削減が叫ばれる昨今在ってはならないものとされることもあるのだけれど、そんな時でさへ酸素に還てくれる。

 

何言ってるんだろうね草木は燃やそうね。

不毛不毛。

 

 

歌唱からは「声優ということもあって自分の幅をどんどん広げていきたい」「今回のシングルでまた新しい面を見てもらいたい」という言葉通り、いままでの曲にはなかったセクシーに誘惑するような雰囲気があって、一気に誘われる。

     

声優グランプリさんや声優アニメディアさんでお話しされた、キーワードである「アキメネスの花」の歌い方の変化の話や声優のお仕事のように演技プランを考えて拘って臨んだという話は趣しろ味があって、そういう変化や拘りが曲の中に人間の感情の変化や息遣いを感じさせるからこそ、曲に奥行きが出てあちこちに気付きがあるのだと思う。

その気付きがスイッチになって聴き手の心に中に「何か」を発動させる。

 

同時にそれは名脚本家がいるから物語がスピーカーを手に入れてどんどん心の一等地に届いていくのだろう。

塩野さんの描く物語は、読むと、自分の心のほかにもうひとつ別の心を渡されたような、その心と一緒に部屋の窓からいつもの景色を見ているような、感覚になって、豊かで鋭い感受性を借りて世界を眺めることができる。

 

そういう意味で、2人のタッグは発売前いつもワクワクして、夢見る少女なのだ。きゃるるん。

でも発売したらしたで、ドカッと落とされる世界観が大きすぎてガンダム一機では受け止めきれそうになくしんどくて、夢見る少女ではいられないのだけれど。

 

声優さんってすごいなっていうのを感じましたっていうのが純粋な気持ちで。

 

重ね重ねだけど、この曲を歌いこなすっていうのは、すごくカッコいいよなあ、と思えて。

 

確かに歌詞の中に共感する、見出す自分の姿ってあるんだけど、僕はこういう歌唱は出来ず「ちがう、そうじゃない」とその内に抱えたものをアウトプットできないのだけれど、この雨宮さんの歌唱で、ぐっと吐き出せる面はあって。

 

しばし語られる、演じることとと歌うことが繋がっているという話もように、これからも『声優として』いろいろなことを届けてくれたら嬉しいし、そんな姿を思うと頑張れそうな気がします。

 

でも、妖しい眼で見つめてきて指をちょっとくねらせて毒蛇みたいに襲ってくるの、ちょっと勘弁してほしい。理性がゆるゆるにされちゃう...(><)

 


メリーゴーランド

諦念と抵抗、相反する二つの表現がテーマだというこの曲。

 

諦念を仄かに宿しながらも抵抗の意志も持ち併せていく、それが日々という周を重ねるたびに音量を増していくみたいなイメージかなあ。

 

四拍子でありつつ三拍子のノリも一緒にある曲ということでちょっと不思議に最初は感じたけれど、でも、ちょっと仕事でいろいろあって今日は諦念と抵抗みたいな感情で帰り聴きながら帰ってきたのだけれど、いざ実際にそういう心情で流れてきた音楽に身を委ねるとこれが心地良く嵌るんものでして。

 

はじめの諦念こそ、ため息をつきながら夜の帳に融かしていくように、メリーゴランドのようにゆっくとした拍で動きだした気持ち。雨宮さんの歌唱もどこか足元の陰を見やったり月を眺めたり、心模様に心地良い歌唱だなあ、って。

 

 

でも、どんなに毒を吐き出しても消えてくれない感情があって、おまえの息つぎは下手だねと、誰でもない影が音のない声で話す。

 

どこまでも雑音に心を晒して生きていくしかない人間の頭の中は、何かを考えようとしても、何かになろうとしても、それとは別の思考がどんどん飛び出て邪魔をする。邪魔をするし影響しあって、どんどんごちゃごちゃしていく。そこに僕は抵抗が生まれると思うし、ごちゃごちゃした言葉はスピードを伴ってあっちこっち行き交って、それはまさにあの拍子なのだよなあ。

 

日々、それの繰り返しだよなあ、って。

 

諦念というか僕の中では諦観は、実は年始に今年1年かけて考えようと決めたテーマだったりして、今年雨宮さんがちらっとブログ (雨宮天公式ブログ:誓いのフィナーレ舞台挨拶)で話題に挙げていて、にゃーっと思っていたりしたところで。

 

まだしっかり終着点はおろか中継点すら見えてないので、やっぱりしっかり考えないとなあ、と思っていた矢先に、いい曲が届けられたものです。

 

鈴木エレカさん、JOEさんはとても良い導きをしてくれていて。

 

 

んー、

 

「悪にも祝福のキスを」という歌詞が歌唱も相まってすごく好きで。

 

抵抗で終わるのならここで言われる悪って僕は「諦念」であったりその日々で浮かんできた感情かなと思うんだけれど、僕はそういう悪/不正解にもちゃんとその存在は、その人の中でだけでも認められてほしいなと思っていて。

だからすごく、ここが好きなんだよな。

 

ごちゃごちゃした雑音だって「私」を作っていて、辛かった日々でさえも、「本当だった」という重みに耐えられない。

夢のような日々がほのめかす迂回によって、《この辛い日々は嘘だったかもしれない》と諦めそうになるけれど、真実で在ってほしくて。

 

厚い雲が出ているからダメだとか、快晴ではないからダメだとかじゃなくて、いつだってそれは認められてほしい。

 

んー、

 

諦観に対する諦観を諦めたくないというか、その影と歩幅を合わせて体が今一人立つ舞台が雨でも抵抗していきたい、というか。

 

 

曲調は全体的にずっと暗い感じで、サビもそこまで明るくはないけれど、どこか華やかで。

 

諦めたくなった日々も、僕は全体的に暗いのかもしれないけれど、ちょっとした優しさや時々ヤケクソに装飾されて、どこか華やかでおしゃれだと思うのだ。

 

 

だからこの諦観も抵抗もごちゃ混ぜにして、歩いていくのかなあ、なんて今は思ってたり。 

ラスサビの雨宮さんの歌唱に感じる「意志」に、そんなことを今は思っていたり。

 

そんな不正解の背景に、この曲があってくれるのは僕はとても心強くて、救われるんじゃないかなあ。

 

 

んー、やっぱりジェットコースターよりメリーゴーランドが好きだ。

 

【追記 7/14】

今日の"The TrySail Odyssey"名古屋2日目公演、雨宮天さんの「メリーゴーランド」初披露。

 

諦念とやさぐれと意志が、こう、それぞれ邪魔をするし影響しあって、混ぜ合わさりながら展開されていく感じで僕は受け取ったのだけど、複数の感情を1曲の中で表現するのは難しそうだし、すごいなあ、と思うのです。

 

でも実際感情ってそんなふうに違うカタチが入り乱れて結びついて、ごちゃごちゃしてて、だからこそなんか響いたなあ。


今回もまたすごいものを届けてくれたなあ、って。

いろんな景色が見えそうです、ありがとうございます。

 

自分の”好き”を徹底すると試練になってしまう、と語るあなたが、「それでも」と前を向いて気持ち良く挑んだり自分の好きに拘れるということが僕にとってはとても幸せなことで、あなたがそう在れるようにこれからも応援しています。